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阿保 人上(あぼ の ひとかみ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。氏姓は建部(または健部)公のち建部朝臣、阿保朝臣。官位は正五位下・陰陽頭。
円仁の『入唐求法巡礼行記』の開成5年(840年)3月7日条に、登州開元寺の北壁に墨書された日本国使の名前の中に「録事正六位上建玄感」があり、この「建玄感」は人上のことと推定される。そこから、、天平宝字3年(759年)在唐中の遣唐大使・藤原清河を帰国させるための迎入唐使が派遣されるが、人上は録事としてこれに従い渡唐したことが分かる[1][2]。
天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側に加勢したらしく、乱後に外従五位下に昇叙されると共に、公姓から臣姓に改姓している。この時、因幡掾。称徳朝ではさらに図書助を務め、この間の神護景雲2年(768年)内位の従五位下に叙せられた。
光仁朝では図書助・勅旨員外少輔と京官を歴任し、宝亀9年(778年)には第16次遣唐使と共に来日した唐使に対する労問を左少弁・藤原鷹取と共に行っている。
天応元年(781年)勅旨少輔に昇格したのち、翌天応2年(782年)武蔵介、延暦5年(786年)武蔵守と桓武朝初頭は武蔵国司を務め、この間の延暦3年(784年)には従五位上に叙せられると共に、以下言上を行い建部朝臣から阿保朝臣に改姓を許されている。
延暦9年(790年)大学頭として京官に復すと、延暦15年(796年)陰陽頭と桓武朝半ばは京官を務める一方、播磨守も兼帯した。延暦16年(797年)正五位下に至る。延暦20年(801年)8月15日卒去。
注記のないものは『六国史』による。
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