酒井忠囿

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酒井忠囿

酒井 忠囿(さかい ただその)は、若狭小浜藩の第4代藩主。小浜藩酒井家5代。

概要 凡例酒井忠囿, 時代 ...
 
酒井忠囿
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文10年2月1日1670年3月21日
死没 宝永3年9月8日1706年10月14日
改名 千熊丸(幼名)→忠囿
別名 与七郎(通称
戒名 宝光院殿崑山道琳大居士
墓所 福井県小浜市男山の空印寺
官位 従四位下、靭負佐
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉
若狭小浜藩
氏族 雅楽頭酒井家
父母 父:酒井忠隆、母:島津綱久の娘
兄弟 忠囿、亀姫(毛利吉就室)、島津惟久
正室:土井利益の娘
養子:忠音
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空印寺の墓

第3代藩主酒井忠隆の長男。貞享3年(1686年)、父の死去により家督を継いだ。元禄10年(1697年)、病気のため辞退した水野勝種に替わって、美作津山藩森長成が徐封となった津山城の受け取りを、松平直明と共に務める[1]

元禄14年(1701年)、松之大廊下吉良義央が刃傷を受けると、見舞いの使者として鈴木団右衛門を派遣している[2]。また、元禄15年12月14日(1703年1月30日)、元禄赤穂事件では鉄砲洲で、引き揚げの赤穂義士を咎め、通行を阻止した[3][4]

宝永3年(1706年)9月8日、嗣子無くして小浜で死去した。享年37。このため、分家の敦賀藩から忠音を養嗣子に迎えて家督を継がせた。

系譜

脚注

関連項目

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