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平安時代後期~鎌倉時代初期の公卿 ウィキペディアから
藤原 親信(ふじわら の ちかのぶ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。右京大夫・藤原信輔の四男。水無瀬家の祖。
久安4年(1148年)に叙爵。以後、備中国、伊予国等の国司や内蔵頭を歴任する。兄達と同様に後白河法皇の近臣として朝廷における地歩を固め、安元2年(1176年)に太宰大弐、翌治承元年(1177年)に従三位に上り公卿に列する。しかし、治承3年(1179年)の治承三年の政変において平清盛によって解官され、一旦朝政からの退隠を余儀なくされる。翌治承4年(1180年)に復帰すると、再び院近臣としての活動に勤しみ、寿永2年(1183年)には正三位・修理大夫、次いで参議に補される。寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いの直前には、法皇の意を受け平宗盛との和平交渉にも当たったと言われる。
その後も文治4年(1188年)従二位、文治5年(1189年)美作権守・権中納言、建久元年(1190年)に正二位、建久2年(1191年)には中納言に任ずるが、これを極官として建久8年(1197年)に出家し、程なく薨去した。
妻の阿古丸ともども今様の達人として知られ、今様を愛好する後白河法皇の寵愛を受け、子・定輔も後鳥羽上皇の近臣として活躍した[1]。
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