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1868年に博経親王によって創設された宮家 ウィキペディアから
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2023年3月) |
知恩院門跡として「知恩院宮」と呼ばれていた博経親王によって創設された。宮号は、知恩院の山号「華頂山」に由来する。
当初は博経親王一代限りの宮号であったが、特旨による宮号の継承を経て、明治22年(1889年)、皇室典範の制定とともに宮家としての世襲が認められる。
大正13年(1924年)3月19日、4代博忠王が嗣子を残さず薨去したことにより宮家としては断絶。大正15年(1926年)12月7日、弟の博信王が臣籍降下して華頂侯爵家を創設、宮家の祭祀を継承した。
屋敷は現在の東京都港区三田四丁目16番20号に所在した。現在は屋敷跡は児童公園(亀塚公園)となり、一般に開放されている。
また、博信が侯爵家を創設した後の1929年(昭和4年)、鎌倉市浄明寺2丁目にハーフティンバー様式の洋館を建設。臣籍降下後の邸宅であり正確には宮邸だったわけではないが一般に「旧華頂宮邸」と呼ばれる。当初は常住を予定していたが、華頂侯爵夫妻(華頂博信侯爵夫人は閑院宮載仁親王第4王女華子女王。後に離婚)が実際にこの邸宅で暮らしたのは数年間だけだったという[8]。この邸宅は平成8年(1996年)に鎌倉市が取得し、平成18年4月に鎌倉市の景観重要建造物、同年10月に国の登録有形文化財に登録された。庭園部分は一般に公開されており、建物内部も春と秋に2日(合計で年に4日)だけ一般公開される[9]。
現在、YouTubeやTwitter(X)、Facebookなどで華頂博一や岡崎華頂、岡崎祐一という名義で活動している人物がいる。この人物は、自身を「旧皇族 華頂宮当主」であるとし、「高祖父・伏見貞愛、曾祖父・伏見博恭、祖父・華頂博信、父・博祐」、あるいは、岡崎祐一名義のFacebookでは「高祖父伏貞愛〔ママ〕 曽祖父伏見博恭 祖岡崎秀夫〔ママ〕 父岡崎博祐」と自称している[10]。しかしながら、華族令による華族全1011家の系図を載せた『平成新修旧華族家系大成』などには、博一自身や、博一の父とされる博祐の名前は確認できないことから、北野康行や神林隆夫と同じ僭称者である[11]。
加えて、博一は伏見博明が代表を務める健全環境株式会社、日本文化振興会などの副代表を務めていると自称しているが、登記簿謄本ではその事実は確認できない。
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