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肝付 兼行(きもつき かねゆき、嘉永6年3月16日(1853年4月23日) - 大正11年(1922年)1月13日[1])は、日本の武士(薩摩藩士)[2]、測量技術者、海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将[2]。海軍水路部長、海軍大学校長、貴族院男爵議員、大阪市長。
鹿児島藩士・肝付兼武の長男[2]。特に測量の分野で活躍した。明治初め、北海道開拓使において測定分野に秀で、水路局に転じ、測量課副長、量地課長を務める。後の日本経緯度原点の基となる、港区麻布台にあった海軍観象台の地点(肝付点)の緯度を測定し、初めて国内経度電信測定を実施した。その後、水路局が海軍水路部になり、測量課長に就任。第2代と第4代の水路部長も務める。柳楢悦とともに、東京数学会社に参加した。
大日本教育会・帝国教育会の役員として海事思想涵養のため、また、水難救済会理事として救難所新設のため、全国各地で講演を行った。1904年(明治37年)から翌年まで海軍大学校長を兼任。1905年(明治38年)には海軍中将。1906年(明治39年)5月28日、予備役に編入[3]。1914年(大正3年)3月1日に後備役となり[4]、1918年3月16日に退役した[5]。
退官後は1907年(明治40年)に男爵、1911年(明治44年)7月10日に貴族院議員に勅選[2][6]、土曜会に所属し、死去するまで在任した[1]。そして1913年(大正2年)には第5代大阪市長に就任したが、間もなく辞任。1917年(大正6年)以降、大日本水産会顧問。
青山墓地(1ロ3-6)に、水路会員が建立した「肝付兼行閣下墓碑」がある。
肝付氏は本姓大伴氏であるため、大伴兼行とも称した[15]。通称は船太郎。
祖先は天明年間に日置郡串木野の肝付家から分家し、鹿児島城下に移り住んだ。父親は肝付兼武。兼行は兼武の次男であるが、長男は早世した。妻は伯父(兼武の兄)肝付兼赫の二女ムツ。子は肝付兼英(貴族院男爵議員)、孫は肝付兼一(内閣調査室員)。桐野利秋の姻戚にあたる。
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