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中華民国の省 ウィキペディアから
福建省(ふっけんしょう、英語: Fuchien/Fukien Province)は、中華民国の省。1949年(民国38年)以降は連江県の一部と金門県のみを管轄しており、それ以外の大陸地区は中華人民共和国の福建省となっている。福建省政府は1998年から虚省化が進みつつも2018年まで行政組織として存続していたが、2019年から予算ゼロ[1]となり事実上廃止されたため、現在は名目上の行政区画となっている。そのため、主要2島の頭文字を取った「金馬地区」と呼称されることが多い。
1911年(宣統3年)10月10日、武昌起義により辛亥革命が勃発すると11月9日、福建新軍もこれに呼応し決起、同月17日に廈門軍政府を設立した。1912年(民国元年)11月16日、民政長官として民政長を設置、1914年(民国3年)5月23日、民政長は巡按使に、1916年(民国5年)7月に更に省長に改称されている。
1926年(民国15年)12月24日、中国国民党は福建省臨時政務委員会を設置、翌年1月2日に省臨時政治委員会を改編、福建省の最高行政機関と定められた。1927年(民国16年)4月12日、上海クーデターが勃発すると福建省は国民政府に帰属、5月1日に臨時政治委員会は解体され福建省政府が成立した。
1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると福州は日本軍に占領され福建省政府は亡命政府となる。1945年(民国34年)、日本の敗戦に伴い中華民国の施政権が回復したが、1949年(民国38年)8月17日、中国共産党により福州市は「解放」され、中華民国は島嶼部の金門県及び連江県・長楽県の一部(馬祖島)、莆田県のごく一部(烏坵郷)を除き実効支配権を喪失した。
1996年1月15日、福建省の地方政府としての機能が「凍結」された。
2019年1月1日、福建省の政府機能を事実上廃止[2][3]。以降、実体のない名称のみの存在となる。同日に行政院金馬連合服務中心が福建省政府の業務と人員を継承した(後述)。
中華民国が建国されると清代の各道は廃止されたが、1913年(民国2年)2月12日、東路道、南路道、西路道、北路道の4道が設置された観察使が任命されている。1914年(民国3年)5月、それぞれ閩海道、廈門道、汀漳道、建安道と改称され、観察使も道尹と改められた。1927年(民国16年)、北伐軍が進駐すると道制は廃止されている。
中華人民共和国成立直前の管轄行政区画は2市68県。(50音順)
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1955年の大陳島撤退作戦以降、中華民国が実効支配する福建省は、中国大陸と海峡をはさんだ下記の島嶼部のみとなっている。中華民国が引き続き統治している福建省について、台湾地域(台湾省と台湾島内の直轄市)との対比から、現在では金門島と馬祖島の頭文字を使用した「金馬地区」(中国語では「金馬地區」)という呼称がなされている。
1996年1月15日をもって福建省政府は地方政府としての機能を「凍結」(事実上の廃止)させられ、省政府は行政院の出先機関として中央政府に組み込まれた。このような省から地方政府としての機能を喪失させる動きを「虚省化」と呼んでおり、1997年の憲法増修条文第四次改憲以降は中華民国で実質的に「省」という地方行政区分が機能していない。その後はわずかに、公務員試験等における地域区分や地方法院(裁判所)等の名称で「福建省」の名称が使用されていた。
2019年1月1日、福建省政府を閉鎖し[2][3]、以降は憲法上に存在する福建省政府という名称と福建省主席の職位のみの存在となった。福建省政府が行っていた業務は行政院金馬連合服務中心に引き継がれた。
上記の2県は国共内戦以来、防共の拠点として戒厳令のもと厳しい軍事態勢下にあったが、近年中華人民共和国による軍事的な脅威が減少したこと、また対岸の中国大陸との交流が活発化したことにより、観光地へと変貌を遂げている。
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