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日本の官僚、政治家 ウィキペディアから
江木 翼(えぎ たすく、1873年(明治6年)12月5日[1][注 1] - 1932年(昭和7年)9月18日)は、日本の内務官僚、政治家。法学博士。幼名は恵助(えすけ)[1]。
江木 翼 えぎ たすく | |
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生年月日 | 1873年12月5日 |
出生地 | 日本 山口県玖珂郡御庄村 |
没年月日 | 1932年9月18日(58歳没) |
出身校 |
山口高等中学校卒業 東京帝国大学法科大学英法科修了 |
前職 | 内務官僚 |
所属政党 |
(憲政会→) 立憲民政党 |
称号 |
法学博士(東京帝国大学法科大学・1920年) 勲二等旭日重光章 |
親族 | 養父・江木千之(文部大臣) |
内閣 | 第3次桂内閣 |
在任期間 | 1912年12月21日 - 1913年2月20日 |
内閣 | 第2次大隈内閣 |
在任期間 | 1914年4月16日 - 1916年10月9日 |
内閣 | 加藤高明内閣 |
在任期間 | 1924年6月11日 - 1926年1月30日 |
内閣 |
加藤高明内閣 第1次若槻内閣 |
在任期間 | 1925年8月2日 - 1927年4月20日 |
内閣 |
濱口内閣 第2次若槻内閣 |
在任期間 | 1929年7月2日 - 1931年9月10日 |
1873年(明治6年)12月5日、山口県御庄村(現在の岩国市)に酒造業を営む羽村卯作の三男として生まれる[1]。山口中学校、山口高等中学校予科、本科を経て、東京帝国大学法科大学英法科へ進学、1897年(明治30年)5月17日[2]に、枢密顧問官、文部大臣、貴族院議員となる江木千之の養子となる。同年7月、帝大を卒業し、大学院に進学[2]。1898年(明治31年)12月文官高等試験に合格[3]。1899年(明治32年)1月、内務省に入省する[4]。神奈川県事務官、法制局参事官、1910年(明治43年)拓殖局部長を歴任する。
1912年(大正元年)第3次桂内閣で内閣書記官長に就任。その後、1914年(大正3年)の第2次大隈内閣、1924年(大正13年)の第1次加藤高明内閣でも書記官長を務め憲政会、立憲民政党系の官僚政治家として台頭した。この間に、1916年(大正5年)10月5日には貴族院議員に勅選され[5]、1920年(大正9年)には法学博士号を受けている。
1925年(大正14年)第2次加藤高明内閣の司法大臣となり、第1次若槻内閣でも留任した。 1926年(大正15年)10月、甘粕事件を起こした甘粕正彦の仮出獄の許可を発令。甘粕は懲役10年の判決のところ約3年で仮出獄した[6]。
1931年(昭和6年)の第2次若槻内閣でも鉄道大臣として入閣し、民政党の歴代総裁からの信任が厚く「民政党の知恵袋」と評され、同党の有力な総裁候補であったが、病のため辞職した。同じ官僚系の伊沢多喜男とは軋轢があり、対立することもあった。1932年(昭和7年)9月18日、前月に死去した養父の後を追うかのように死去。前年から胃癌を患っており、それが肝臓にも転移していた[7]。墓所は青山霊園。
旧邸宅地は、1980年(昭和55年)に向山庭園として、一般開放されている。
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