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元サッカー選手の「森一紘」とは別人です。 |
森 一弘(もり かずひろ、1938年10月12日 - 2023年9月2日)は、カトリック教会の司教。洗礼名は「パウロ」。
概要 パウロ 森 一弘Paulus Kazuhiro Mori, 教会 ...
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1938年10月12日、神奈川県横浜市で生まれる。「当時の平均的日本の家庭のように、神棚と仏壇が共存してい」る、両親共クリスチャンではない家庭であった[1]。栄光学園[2]高校在学中、カトリックの洗礼を受ける[注 2]。受洗時には既に司祭への道を歩む覚悟を決めていた[4]。1959年、男子カルメル修道会に入会[5]。修道名は「神の母のパウロ」[6]。1960年[注 1]、上智大学文学部哲学科[5]を卒業。1962年、ローマ・カルメル会国際神学院に留学[5]。1967年3月、ローマで司祭に叙階された[3]。1968年、同学院を修了[5]、帰国[7]。帰国後は東京都世田谷区の、現在の町名で上野毛にある男子カルメル会修道院で生活し、カトリック上野毛教会[注 3]の司牧を務めた[9]。その後カトリック東京大司教区の教区司祭に任ぜられ、1977年8月から1981年3月まで関口教会の助任司祭を[3]、1981年4月から1985年1月まで同教会の主任司祭を務めた[3]。1984年12月3日、同教区の補佐司教に任命され[3]、1985年2月23日に司教に叙階された[3]。東京大司教区補佐司教として司牧と福音宣教に努める傍ら、聖書研究に精励し数多くの著書を執筆。1993年から2000年までカトリック中央協議会事務局担当司教、1994年から1998年まで同協議会事務局長を兼任[10]。2000年5月13日に補佐司教を引退[注 4]した[3]。1985年11月から2021年6月まで真生会館(東京・信濃町)理事長を務め[3]、執筆・黙想指導などを行い続け[6][11]、死の直前まで同会館の講座を担当していた[12]。
2023年9月2日午前3時39分、上部消化管出血のため東京都千代田区の東京逓信病院にて死去(帰天)。享年84[3]。同月5日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で葬儀ミサ・告別式が執り行われた[11]。森の生前の希望により、遺体は献体されることが既に決まっており[11]、式後、柩は火葬場ではなく、献体の受け入れ機関へと運ばれた。納骨式は数年後となる見込み[13]。
- 著書
- 著書(共著)
- 角川文庫(角川書店、2009年10月。ISBN 978-4041294413)
- 学研M文庫(学研パブリッシング、2013年9月。ISBN 978-4059008569)
- 徳間文庫カレッジ(徳間書店、2016年5月。ISBN 978-4199070518)
- 角川文庫電子版(KADOKAWA、2015年3月)
- 著書(児童書)
- 書籍(編集)
- 日本語聖歌の作詞
- 『きかせてください』(作曲・新垣壬敏(つぐとし))[注 13]
- 絶筆
- 月刊誌『家庭の友』(サンパウロ)2023年1月号~同年10月号の連載「どの人生にも、価値があり、意味がある」が、公刊された文章としては森の最後の作品となった。この連載は、当初は、同年12月号まで1年間の予定であった[17]。
- 『家庭の友』2023年11月号では、入るはずだった森の原稿の代わりに、「パウロ 森一弘司教様を偲んで」を載せた。p.15が『家庭の友』編集室によるもので、森の21世紀の同誌への寄稿一覧表つき。p.16-17は、森の後任の真生会館理事長であるアンドレア・レンボ司祭(ミラノ外国宣教会)による、9月5日の森の葬儀ミサでの説教からの引用である[注 14][注 15]。
注釈
森の大多数の著作では、著者略歴が「1960年 上智大学卒」となっているのでこちらを採用するが、森の生年月日では、大学現役入学の場合、通常計算では最短で1961年3月卒業となる。「卒業時の年号」よりも「最終学年の年度」を優先させている可能性もある。
受洗の時期は、カトリック東京大司教区の訃報の略歴では「1954年4月3日」[3]だが、五木寛之との対談『神の発見』では、本人が「1955年、高校3年のときです」と述べている[1]。森の生年月日の場合、通常計算で高校2年が1955年4月-1956年3月、高校3年が1956年4月-1957年3月。東京教区サイトの訃報によると、洗礼は栄光学園聖堂で行われた[3]。
カトリック上野毛教会は、男子カルメル会修道院が聖堂を地元一般人にも開放したことから始まった。東京大司教区ウェブサイトの「カトリック上野毛教会」では、同教会が「修道院付属の聖堂共同体」「カトリック田園調布教会の分教会」として東京教区での正式な地位を得たのは「1970年まで」とあるが、創立年月日は「1952年8月15日」となっている[8]。
「補佐司教」は教区の役職なので「退任(引退)」があり得る。その後の「名誉司教」(東京教区サイトでの用例)[3]・「名誉補佐司教」(カトリック新聞での用例)[11]は、あくまで東京教区内のみでの称号である。一方、「司教」は一生涯続く位階であるので「引退」は無い。
1995年4月1日に「サンパウロ」と社名変更した。
一部の公立図書館では、副題の「B年」が「13年」と誤記登録されているもの有り(「国立国会図書館サーチ」2023年9月12日現在)。
月刊誌『あけぼの』は、1956年1月号から2015年5月号まで刊行された。創刊号から1956年9月号までの奥付表記は「編集兼発行人 聖パウロ修道会 代表者ヴィンセンソ・テスティ /発行所 聖パウロ修道会 /取次所 聖パウロ女子修道会」。同年10月号-11月号で「編集者 聖パウロ女子修道会」(発行人・発行所・取次所は同上。この時まで発行人の住所は修道院の所在地とは別住所である)、同年12月号より「編集人 聖パウロ女子修道会」となる。発行人は「ヴィンセンソ・テスティ」(この時より住所が聖パウロ修道会のある新宿区若葉町となる。1956年12月号-1957年8月号)・「聖パウロ修道会 代表者グィド・パガニーニ」(1957年9月号-1958年3月号)、発行所は「中央出版社」(1957年9月号-1958年3月号)と若干の変遷を経て、「編集人・発行人・発行所」の3者共すべて「聖パウロ女子修道会」と表記されるのは1958年4月号からである。
本書奥付の「著者」は森一弘だが、表紙には「質問の選択 遠藤周作 /答える神父 森一弘」と印刷されており、「まえがき」を遠藤が、「あとがき」を森が担当している。
正・続『人はみな、けなげに生きている』では、森は「編著者」。
教皇フランシスコは、2019年11月23日~26日にかけて訪日した。教皇の来日としては38年9ヵ月ぶり。
月刊誌『手づくりの教会』は、1987年6月号から1993年4月号まで、中央出版社より刊行されていた。
説教の全文は、『東京教区ニュース』(カトリック東京大司教区広報部)第406号(2023年10月号)第2面で読むことができる。ウェブ版はアンドレア・レンボ (2023年10月4日). “神様は私の心の温泉です -森一弘司教を偲んで-”. カトリック東京大司教区>お知らせ>教区ニュース>東京教区ニュース第406号. 2023年12月7日閲覧。。
出典
“カトリック上野毛教会”. カトリック東京大司教区>東京大司教区>小教区案内>東京の教会>. 2023年12月7日閲覧。
「森一弘名誉補佐司教逝去」‐『カトリック新聞』2023年9月17日。第4687号。1面。
『東京教区ニュース』(カトリック東京大司教区広報部)第406号(2023年10月号)、第3面。ウェブ版“訃報”. カトリック東京大司教区>お知らせ>教区ニュース>東京教区ニュース第406号 (2023年10月4日). 2023年12月7日閲覧。。
森「どの人生にも、価値があり、意味がある」(その1)(『家庭の友』2023年1月号、p.14-17)よりp.14。
『東京教区ニュース』(カトリック東京大司教区広報部)第408号(2023年12月号)。ウェブ版は“アンドレア・レンボ被選補佐司教司教叙階式のお知らせ”. カトリック東京大司教区>お知らせ>教区ニュース>東京教区ニュース第408号 (2023年12月7日). 2023年12月7日閲覧。
- 『神の発見 書き下ろしエッセイ+トーク』(五木寛之との対談。同書奥付では「著者 五木寛之 / 対話者 森一弘(カトリック司教)」) 平凡社、2005年8月。