松平乗紀
江戸時代前期から中期の大名。信濃小諸藩2代藩主、美濃岩村藩主。乗政流大給松平家2代。従五位下・美作守、兵庫頭、能登守。松平乗政の長男。江戸幕府 奏者番。子に吉三郎、松平致乗、 ウィキペディアから
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江戸時代前期から中期の大名。信濃小諸藩2代藩主、美濃岩村藩主。乗政流大給松平家2代。従五位下・美作守、兵庫頭、能登守。松平乗政の長男。江戸幕府 奏者番。子に吉三郎、松平致乗、 ウィキペディアから
松平 乗紀(まつだいら のりただ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。信濃国小諸藩2代藩主、後に美濃国岩村藩主。乗政流大給松平家2代。官位は従五位下・美作守、兵庫頭、能登守。
松平乗紀像(隆崇院蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 延宝2年(1674年) |
死没 | 享保元年12月25日(1717年2月6日) |
改名 | 吉十郎(幼名)→石川乗紀(初名)→松平乗紀 |
戒名 | 龍玄院殿雪巌悟心大居士 |
墓所 | 東京都台東区上野公園の春性院 |
官位 | 従五位下・美作守・兵庫頭、能登守 |
幕府 | 江戸幕府奏者番 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 信濃小諸藩主→美濃岩村藩主 |
氏族 | 大給松平家 |
父母 |
父:松平乗政、母:清薫院(丹羽瀬氏) 養母:松浦鎮信娘 |
兄弟 | 乗紀、松平信孝正室 |
妻 | 久(寶光院、朽木稙昌娘) |
子 |
乗賢[1]、吉三郎、致乗、田宮、朽木玄綱[2]、亀之助、水谷建英、栄久院(阿部正鎮正室)、 松平義堯養女、知久久徹室 |
延宝2年(1674年)、小諸藩初代藩主・松平乗政の長男として誕生した。
貞享元年(1684年)、父の死去により11歳で家督を継いで小諸藩主となった。『土芥寇讎記』ではこの頃の乗紀について「家老が大悪人である」「人に誑かされている」と記されている。一方、領内の統治はよくできていると評されている。また母の清薫院とは5歳で死別し、父の正室の覚照院(松浦鎮信の娘)に幼少時から養育された。
元禄2年(1689年)、16歳で任官し従五位下・美作守に叙せられた。
元禄3年(1690年)、朽木稙昌の娘の久と婚姻した。
元禄8年(1695年)、嫡男の吉十郎(松平乗賢)が生まれた。
元禄9年(1696年)、23歳で大坂加番を任じられ大坂城へ赴任した。
元禄10年(1697年)、養母の覚照院が没し、麻布の光林寺に葬った。
元禄14年(1701年)7月、能登守に改め、半蔵門を守った。
元禄15年(1702年)8月、幕府から命があり、国替で越後高柳藩へ移った丹羽氏音の後を受けて、美濃岩村藩へ国替となる。9月7日に岩村城へ入り、恵那郡の一部と土岐郡の一部の計2万石を領知した。丹羽家の菩提寺であった妙仙寺の建物を譲り受け、小諸城内にあった菩提寺の松石山乗政寺と、その中にあった月光山日輪院薬師寺を、仏像や位牌と共に小諸から岩村へ移した。12月には奏者番に任じられた。
元禄16年(1703年)6月22日、姓を石川から松平に復し、兵庫頭に任官された。
宝永6年(1709年)、5代将軍の徳川綱吉が薨去した際、葬儀の警護に当たった。
正徳2年(1712年)11月、岩村において追鳥狩を始めた。これは当時、東濃の名物であったツグミやアトリなどの野鳥を徳川将軍家への進物とすることと、藩内の武士と百姓を集めて武技演習の意味を込めたものであった。藩内の武士は全員が武装して出席し、百姓は追勢子が600人、拾い勢子が600人、その他、老若男女は全員出席し、天王山と山上(やまがみ)に立場を置いて、乗紀は馬で出御した。これより以後は毎年の行事となった。
藩校として文武所を開校し(後に知新館と改名)、文武を奨励して、美濃国内では東の岩村藩と西の大垣藩が教育の中心地となった。
家老
御用人役
物頭役
勝手用人役
聞書役
大目付役
取次役
馬廻
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