服部一郎
日本の実業家 ウィキペディアから
服部 一郎(はっとり いちろう、1932年2月27日[1] - 1987年5月26日)は、日本の実業家。セイコーインスツルの元代表取締役社長、セイコーエプソンの初代代表取締役社長、日本国際フォーラムの初代理事長。
![]() |
略歴
東京都出身。セイコーホールディングス創業者服部金太郎の孫。第3代社長服部正次の長男として生まれる。長野県諏訪清陵高等学校、学習院高等科を経て、東京大学法学部卒業。1954年第二精工舎(現在のセイコーインスツル)入社。その後、チューリッヒ大学、イェール大学へ留学した。
1961年第二精工舎取締役[注 1]、1965年同社常務取締役、1967年同社専務取締役を経て1979年同社代表取締役社長。1980年兼務で諏訪精工舎の代表取締役社長に着任する。同社は1985年セイコーエプソンに社名変更し、初代代表取締役社長となる。
この間、1976年にはシンガポールへ同社の工場を進出させるなど、事業の国際化と多角化を牽引した[2]。1987年初代日本国際フォーラム理事長に請われる[3]。
1987年5月26日、静岡県川奈で開催された国際ロータリークラブ親善ゴルフ大会のラウンド中に倒れ、心筋梗塞のため急逝した[8]。墓所は鎌倉霊園[9]。
2022年6月13日、生誕90年を記念して、サンリツ服部美術館「生誕90周年記念 服部一郎コレクション名品展」が開催された[10]。オーディオマニアでもあった[11][12]。
栄典
著作
- 服部一郎「オールmT管3バンド電蓄の作り方」『ラジオと音響』第6巻第2号、オーム社、1952年2月、130-133頁。
- 共著
- 服部一郎 著「野間君の思ひ出」、鼈宮谷清松 編『野間恭一郎の思ひ出』鼈宮谷清松、東京、1938年(昭和13年)、73頁-(コマ番号0051.jp2)頁。doi:10.11501/1029620。全国書誌番号:44011281。
- 服部一郎 ほか 著、故槙原覚氏追悼録編纂委員会 編『槙原覚君の憶出』故槙原覚氏追悼録編纂委員会、東京、1943年、148頁(コマ番号0093.jp2)頁。doi:10.11501/1052301。全国書誌番号:44038098。
- 水産部時代「槇原君の『貴き投資』」148頁(コマ番号0093.jp2)
- 会社関係その他「槇原君の秀れた手腕と人格」182頁-(コマ番号0110.jp2)
- ロンドン在勤者が語る槇原氏の横顏(座談会)、服部一郎、196頁-(コマ番号0117.jp2)
- 船田一雄氏記念刊行会 編「〈追想〉28 船田さんの思い出」『船田一雄』東京、1953年、p293 (コマ番号0210.jp2)頁。doi:10.11501/2974699。全国書誌番号:53016120。
- 大来 佐武郎「バイ・アメリカン以外にも途はある(経済摩擦解消への処方箋〈特集〉)」『中央公論』第100巻第6号、中央公論新社、1985年6月、64-73頁、ISSN 0529-6838。
参考文献
- 初歩のラジオ編集部 編「〈リスニング・ルーム拝見〉服部一郎氏宅」『最新ステレオHi-Fi製作読本 - 初歩のラジオ 編』誠文堂新光社、東京、1967年、9頁(コマ番号0004.jp2)頁。doi:10.11501/2513670。NDLJP:2513670。
- 編集部(編)「セイコー電子工業社長服部一郎」『月刊公論』第18巻第5号、財界通信社、1985年5月、72-73頁(コマ番号0037.jp2)、doi:10.11501/2863118、ISSN 2758-1756、全国書誌番号:00043018。国立国会図書館デジタルコレクション、国立国会図書館内公開。
- 緒方四十郎「服部一郎セイコー社長の死を悼む」『月刊公論』第20巻第8号、財界通信社、1987年8月、99頁-(コマ番号0050.jp2)、ISSN 2758-1756、全国書誌番号:00043018doi。国立国会図書館デジタルコレクション、国立国会図書館内公開。
- 服部一郎、被伝者『服部一郎氏を偲ぶ』セイコ-電子工業株式会社、1988年。服部一郎の肖像あり。別題『Ichiro Hattori (1932-1987)』
脚注
関連項目
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.