Loading AI tools
ウィキペディアから
斯波兼頼の嫡男として生まれ、正室として伊達宗遠の娘を娶り縁戚関係を結ぶ[注釈 1]。永和元年(1375年)、兼頼の跡を継ぎ最上氏第2代当主となった。その伊達氏は南朝:天授6年/北朝:康暦2年(1380年)頃から置賜の長井氏を攻め始める。一時鎌倉公方の干渉によって伊達氏は撃退されるが、結局南朝:元中2年/北朝:至徳2年1385年には長井氏は滅亡し、最上氏と伊達氏は隣接することとなった。至徳元年(1384年)至徳寺を創建し、応永元年(1394年)屋形号を許され最上屋形を名乗ったという[3]。応永2年(1395年)鎌倉公方足利氏満によって南奥羽の田村氏討伐の陣触れを出し、最上氏も霊山へ出陣した[4]。こののち、大佛城攻めにも参加している[5]。応永3年(1396年)に小白川天満神社に菅原道真を祀った記録が残る。
『餘目氏旧記』によれば、奥羽・出羽が鎌倉府の配下に入ると、最上氏は大崎氏とともに鎌倉に伺候し、相模国山内荘長尾に居を構えたという[6]。
応永6年(1399年)応永の乱で鎌倉公方が室町幕府に対して叛意を示したものの、不調に終わると両者の関係は悪化し、同年鎌倉公方が設置した篠川御所、稲村御所によって奥羽の豪族と鎌倉公方の関係も悪化した。翌年大崎氏が幕府から奥州探題に補任されると、応永9年(1402年)伊達氏・大崎氏らが挙兵し公方側の結城氏や上杉氏と争う(伊達正宗の乱)。この時最上氏は公方側に付き、近隣諸侯とともに伊達氏苅田城攻めを行っている[7]。
系図によると、子息を天童(山形県天童市)、高擶(天童市)、蟹沢(東根市)、成沢(山形市)に配置し、また大崎氏支配下の黒川郡へ送り出し、支配域を拡大している。
蘆名詮盛 | 娘 | ||||||||||||||||||||||
斯波兼頼 | 直家 | ||||||||||||||||||||||
満直 | |||||||||||||||||||||||
伊達宗遠 | |||||||||||||||||||||||
娘 | 天童頼直 | ||||||||||||||||||||||
結城宗広娘 | |||||||||||||||||||||||
伊達政宗 (大膳大夫) | 黒川氏直 | ||||||||||||||||||||||
蘭庭明玉禅尼 | 高擶義直 | ||||||||||||||||||||||
蟹沢兼直 | |||||||||||||||||||||||
成沢兼義 | |||||||||||||||||||||||
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.