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戦国時代の出羽国の国人連合 ウィキペディアから
最上八楯(もがみやつだて)は、戦国時代に出羽国に存在した有力国人領主による国人連合。天童八楯(てんどうやつだて)とも。
最上八楯はいずれも最上氏及び天童氏の分族で構成される。 最上氏は室町時代に最盛期を迎えたが、各地に配置した分族が独立した勢力を築きあげるようになり、衰退する。最上義定の時代には伊達稙宗の侵攻を受けてその傘下に入る。この頃、村山郡の北部から最上郡にかけての国人領主が天童氏を盟主に同盟を結んだ。これが最上八楯である。八楯のメンバーは最上義定死後の後継者指名で、伊達氏に影響力を行使されるのを嫌い最上氏に味方するが、天正最上の乱が起きると最上義守・伊達輝宗方について最上義光方と戦う。義守・伊達氏と義光の間で和議が結ばれると、八楯も義光と和議を結んだ。
天正5年(1577年)義光は天童氏を攻める。しかし、八楯が盟主天童氏を援助したため最上軍は敗北し、天童氏の娘を義光の側室とすることで和議が成立した。天正8年(1580年)義光は八楯と盟を結ぶ上山氏当主の上山満兼を暗殺し、天正9年(1581年)天童氏と縁戚関係にあった小国城主・細川直元を攻略した。天正10年(1582年)天童氏から迎えた側室が死亡したため同盟は白紙となってしまう。天正12年(1584年)義光は八楯の実力者、延沢満延と婚姻関係を結び引き抜くと、東根氏も配下の内応により攻略され八楯は崩壊していく。同年義光は天童攻めを再び行い、天童城は落城。天童頼澄は陸奥国に逃れた。以降、八楯の主要氏族は最上氏に従った。
一般に最上八楯と言われるのは以下の8家である。
この他にも以下の勢力が同盟に加わっていた。
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