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東京都中央区八重州一丁目から日本橋三丁目にあった花街 ウィキペディアから
1777年(安永6年)に成立した田にし金魚著『妓者呼子鳥』に、常磐津名取の「文字たみ」がいたと記されているのが、日本橋界隈における芸妓の最初の登場である[1][2]。
天保の改革で深川等の岡場所から芸妓が逃れ、その一派が日本橋周辺に移り住み、花街を形成する契機となった[2]。芸妓衆は現在の三越から日本銀行本店の間に集住、日本橋南側にも住み、町名にちなみ「数寄屋町芸者」と呼ばれた。
1892年、日本橋北側と南側の花街が合併、当時日本橋に存在した魚河岸や商家を相手に発展した。明治中期、芸妓約80名いたが日清、日露戦争時には230名に増加、柳橋、芳町に次ぐ一流花街として名を馳せた[3]。
1923年に発生した関東大震災で日本橋一帯は花街も含めて被災した。震災復興後、魚河岸は築地市場に移転したため[4]、日本橋花街の主な顧客は同地に残った商家、企業となった。1929年、芸妓287名、置屋127軒、料理屋9軒、待合51軒であった[5]。
しかし、1937年に日中戦争が、1941年に太平洋戦争が勃発して戦時色が濃くなると、1944年、日本橋花街は営業停止され、翌1945年の東京大空襲によって壊滅した。終戦後の1950年には復興したがその後衰退し、1960年に見番が閉鎖したことで日本橋花街は終焉した。料亭は花街がなくなった後も営業し続けたが年々減少していき、2019年現在、日本橋界隈で営業しているのは料亭「や満と」、割烹「嶋村」(1850年、創業)となった[6]。
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