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江戸時代に将軍家が日光東照宮に参拝した行事 ウィキペディアから
日光社参 (にっこうしゃさん)は、一般には日光東照宮に参拝する意味だが、ここでは、日本史の用語として、特に江戸時代に将軍家が参拝する行事を解説する。将軍あるいは大御所・大納言(将軍家の嫡子)による日光社参は合計19回実施された。そのうち、16回が4代家綱までに集中しており、特に3代家光は10回と歴代将軍の中で最多である。
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主に徳川家康の命日である4月17日に参拝するように実施された。主に用いられた行程は次の通りである。
江戸城を発つと、まず日光御成街道(日光御成道)を進み、初日は岩槻城に宿泊した。さらに次の日は、幸手宿近くで日光街道(日光道中)に入り、2日目は古河城に宿泊、3日目は宇都宮城に宿泊したのち、4日目に日光に到着した。日光には連泊し、復路は往路を逆に辿る合計8泊9日の行程であった。
家綱の頃までの復路では、今市宿から壬生通り(日光壬生道、日光西街道)に入り、宇都宮城の代わりに壬生城に宿泊することもあった。
日光社参には主に以下の3つのコースがあったといわれている[1]。
日光社参には、膨大な経費を要した。供をする大名や旗本、動員される人馬も膨大である。例えば、安永5年(1776年)の将軍・家治の社参の際には、行列の先頭が日光にあるときに、最後尾はまだ江戸にあったとも言われている。近在の農村からの人馬徴発も、日光社参の時期は農繁期に重なることが多く、大きな負担になっていた。
これほどの大事業を成し遂げることは、徳川家の権威を、大名から庶民に至るまで広く知らしめる効果が絶大であった。しかし、第四代家綱の後、幕府の財政に余裕が無くなると、その頻度は低下していった。
なお家光は、家康を強く尊崇していたと言われる。江戸城内に東照宮を設置したこと、朝廷に願い出て、毎年の日光例幣使派遣を許されたことなどに表れているが、日光社参回数が最も多いこともそのひとつであろう。
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