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現在の東京都千代田区に江戸時代後期まであった池 ウィキペディアから
於玉ヶ池(おたまがいけ)は、現在の東京都千代田区岩本町2丁目5番地の辺りにあった池。
伝承によると、江戸期にあった池の近隣の茶屋にいた看板娘の名前「お玉」からとされる。
『江戸名所図会』によると、あるとき「人がらも品形(しなかたち)もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じ、亡骸(なきがら)は池の畔(ほとり)に葬られたとある[1]。 人々が彼女の死を哀れに思い、それまで桜ヶ池[注釈 1]と呼ばれていたこの池を於玉ヶ池と呼ぶようになり、またお玉稲荷[注釈 2]を建立して彼女の霊を慰めたという[3]。
江戸時代以前は、不忍池から南下する流れが有り、於玉ヶ池を経由し南流し、現在の東京湾へ注いだ(小網神社付近の入江)。江戸時代に南下する流れは無くなった(神田川が瀬替えされ東西に横切ることとなった)。
江戸期の古地図では景勝地として現在の不忍池程度の面積を有していたらしいが、江戸後期頃から徐々に、神田山(駿河台)を削って埋め立てて宅地化されて、弘化2年(1845年)の時点で池自体も存在しない。 北辰一刀流の道場「玄武館」があった場所として有名で、千葉周作は「お玉ヶ池の先生」と呼ばれた。 この界隈には、儒者、漢学者などが多数住んでおり、江戸の学問の中心地でもあった。佐久間象山の象山書院、東条一堂の瑶池堂など。
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