新疆侵攻
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新疆侵攻は、国共内戦最終盤に起きた中国共産党による新疆への軍事展開。現地で勢力を保っていた国民党軍は主に政治的な手段を通じて降伏することとなり、降伏後人民解放軍がすばやく新疆内に展開した。中華人民共和国においては新疆和平解放と呼ばれている。
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概要 新疆侵攻, 時 ...
新疆侵攻 | |||||||
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国共内戦中 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
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指揮官 | |||||||
![]() 彭徳懐 |
蔣介石 陶峙岳(Tao Zhiyue) 馬呈祥(英語版) ユルバース・カーン | ||||||
戦力 | |||||||
100,000 | 44,657 |
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当時、新疆は、1944年にソビエト連邦がイリ事変(英語版)での新疆北東三区を支援したことによって国民党と旧第二次東トルキスタン共和国(ETR)の首脳からなる迪化(現在のウルムチ)の新疆省連合政府に支配されていた。新疆省連合政府は1946年から1947年まで続き、1947年5月に崩壊してからは旧ETRの勢力がイリ地方に退去して三区を実効支配した。
1949年の晩夏、人民解放軍は甘粛省の河西回廊に進み、新疆に圧力をかけた。1949年の秋、共産党勢力は国民党と三区との間で新疆の政治的主導権に関して個別の合意に達した。中国共産党は国民党の地方政府と軍を説得し、ソビエト連邦は旧ETRの首脳が共産党に加盟するように誘導した。旧ETRの首脳の数人は中国人民政治協商会議に参加するため北京へ向かう飛行機が墜落し死んだとされ、残りの旧ETRの指導者は新しく成立した中華人民共和国への三区自治の編入に合意した。彼らは降伏した国民党将官と共に中華人民共和国政府の要職につけられた。
このように中国共産党の新疆への勢力圏拡大は主に政治的な方法によって下準備が行われた。人民解放軍は1949年10月に新疆に展開し、広大な地域を1950年春までに占領した。ユルバース・カーンやオスマン・バティル(英語版)によって僅かに抵抗活動が行われたが、双方とも共産党軍に敗れた[1][2]。