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愛新覚羅胤礽(あいしんかくら いんじょう、満州語:ᡞᠨ ᠴᡝᠩ、転写:aisin-gioro in-ceng、康熙13年5月3日(1674年6月6日) - 雍正2年12月14日(1725年1月27日))は、清聖祖康熙帝の第二皇子。愛新覚羅氏。雍正帝が即位すると、その名を避諱して允礽に改名された。
孝誠仁皇后の子として、生まれた時から康熙帝の寵愛を一身に受け、種々の英才教育を施されて十全な皇太子に成長した。太祖ヌルハチから世祖フリン (順治帝) までは立太子が実施されず、世宗胤禛 (雍正帝) 以降は太子密建の制度により、皇帝の死後に次の皇帝が直接指名された為、胤礽は清朝における最初で最後の皇太子である。
しかし、通算30年以上にも及ぶ長い皇太子時代は徐々に胤礽を即位への焦りを募らしめた。胤礽は素行や生活が荒れ出した挙句、朋党を結成して徐々に小朝廷を築き、大叔父ソンゴトゥの教唆もあって康熙帝と度々衝突した。結局、二度の立太子と二度の廃太子を経て、雍正初頭に幽閉先で死去した。
康熙13年 (1674) 旧暦5月3日、胤礽出生。同日申時 (15-17時)、生母・孝誠仁皇后が坤寧宮で崩御。[1]
康熙14年 (1675) 1歳[2]
康熙16年 (1677) 3歳
康熙21年 (1682) 8歳
康熙29年 (1690) 16歳
康熙34年 (1695) 21歳
康熙42年 (1703) 29歳
康熙47年 (1708) 34歳
康熙48年 (1709) 35歳
康熙51年 (1712) 38歳
康熙57年 (1718) 44歳
康熙59年 (1720) 46歳
康熙61年 (1722) 48歳
雍正1年 (1723) 49歳
雍正2年 (1724) 50歳
康熙帝の最初の皇后である孝誠仁皇后の男子として生まれるが、母は難産で死去した。康熙15年(1676年)、胤礽はわずか2歳にして皇太子に立てられ、母方の大叔父に当たるソンゴトゥが権勢を得ていたこともあり、周囲の期待の下、英才教育を受け成長した。康熙帝は胤礽を非常に可愛がり、遠征中に自筆の手紙を何度も差し出したり、一緒に狩りに行ったりした。また、成人しても爵位や領民を与えず、部屋住みにした。これは帝位を円滑に継がせたいための処置であった。
ところが、ガルダン・ハーン討伐で他の皇子たちが功績を挙げたので、康熙帝は6人に爵位と八旗や領民を与えた。旗は元来はそれぞれ独立した部族集団であり、清朝初期の皇帝やその前身の後金のハンは満洲の部族連合の長として合議で選ばれており、皇帝が皇太子と定めても帝位を継げる保証は必ずしもなかった。そのため、各旗の旗人は壮烈な党派争いを演じ、陰謀が巡らされた。また、満洲人には長子相続という慣習がなく、中国式の皇太子の地位など皇子たちには納得がいかず、兄弟みな同格だと認識していた。
そうした中、康熙42年(1703年)に胤礽の後ろ盾でもあったソンゴトゥがクーデターで失脚すると、胤礽は孤立して自暴自棄となった。
康熙帝は廃位を決意し、康熙47年 (1708) 旧暦9月4日、康熙帝はプルハスタイ (布爾哈蘇台:現内蒙古チャハル地区) の行宮において、皇太子・胤礽を宗人、官僚らの前で跪かせ、皇太子廃位の詔書を咽びながら宣読した。
朕、太祖、太宗、世祖の弘業を承り、茲に於て四十八年。兢兢業業として臣工を軫いたみ恤あはれみ、百姓を惠み養ひ、惟だ天下を治安するを以て務めと爲す。今、胤礽を觀るに、祖の德に法らず、朕の訓へに遵はず、惟だ惡を肆ほしいままにし、眾を虐げ、暴戾にして淫亂なること、諸口を出で難し。朕二十年包容せり。乃ち其の惡愈張じ、在廷の諸王、貝勒、大臣、官員を僇辱し、威權を專擅し、黨羽と鳩聚し、朕の躬みを窺伺するに起居動作、探聽せざるは無し。朕思ふに國惟だ一主なり。胤礽何ぞ諸王、貝勒、大臣、官員を將て意ひに任せて凌虐し、捶撻を恣行するを得むや。平郡王・訥爾素、貝勒・海善、公・普奇の如くは、俱ともに伊の毆打を被り、大臣、官員、以て兵丁に至るは其の荼毒に遭はざる鮮すくなし。朕此の情を深く悉れり。諸臣に言有りて伊かれの行事に及ぶは、伊即ち其の人を讎視し橫ほしいままに鞭笞を加ふるに因りて、故に朕未だ伊の行事を將て、一詢も諸臣に及ばず。朕陝西、江南、浙江等の處を巡幸するに、或ひは廬舍に駐し、或ひは舟航に御し、未だ嘗て跬步も妄りに出でず、未だ嘗て一事も民を擾せず。乃ち胤礽、伊の屬下の人等と同ともに、乖戾を恣行し、至らざる所無く、朕をして啓齒するに赧らめ令む。又た使ひを遣りて外藩の入貢する人を邀截し、御に進ずる馬匹を將て意ひに任せて攘取し、以て蒙古俱に心服せざるに至れり。種種の惡端、枚舉す可からず。朕尚ほ其の過ちを悔ひ、自ら新むるを冀ねがひ、故に隱忍し優容し今日に至れり。又た朕、胤礽の賦性の奢侈たることを知れば、伊の乳母の父・凌普をして內務府總管と爲さ著しめ、伊をして取用するに便なら俾しめたり。孰なんぞ意おもはむや、凌普更に貪婪を爲し、包衣下人をして怨恨せざる無から使むに致れり。朕胤礽の幼時より、凡そ用ゐる所の物、皆な係これ庶民の脂膏なれば、應まさに節儉に從ふべしと諄諄と教訓をこそすれ、乃ち朕の言に遵はず、奢を窮め欲を極め、其の兇惡を逞しくす。今、更に滋ますます甚だきは、朕の諸子を將て噍類を遺さざるの勢ひ有り、十八阿哥病を患ひて眾皆な朕の年高を以て朕の爲に憂慮せざるは無けれど、伊係これ親兄なれども毫も友愛の意無く、因りて朕加責せば、伊をして反りて忿然と發怒せ讓しむ。更に異す可き者、伊每夜布城に逼近し、縫を裂きて內に向ひ竊視す。從前、索額圖伊を助けて潛かに大事を謀り、朕其の情を悉知すれば、索額圖を將て處死せり。今、胤礽、索額圖の爲に復仇せむと欲し黨羽を結成せり。朕をして未だ、今日鴆せ被るか、明日害に遇ふかを卜せざら令め、晝夜戒慎して寧からず。此の似き人、豈に付あたふるに祖宗の弘業を以てす可きや。且つ胤礽、生れて母を剋したり。此等の人、古に不孝と稱す。朕即位以來、諸事節儉し、身は敝褥を御し、足は布韈を用う。胤礽の用ゐる所、一切朕を遠過し、伊猶ほ以て不足と爲せり。國帑を恣取し、政事に干預すれば、必ず我が國家を敗壞し、我が萬民を戕賊するに致りて後已まむ。若し此の不孝不仁の人を以て君と爲さば、其れ祖業を如何せむ。(以上、『聖祖仁皇帝實錄』巻234 - 康熙47年9月4日/段21353より)
太祖、太宗、世祖の王業を承け継ぎ48年。朕は大臣、官吏らを慈しみ、人民を恵み養い、ただ天下泰平の為に心血を注いできた。しかるに今の皇太子を見ると、先祖の道徳を蔑ろにし、朕の訓戒を黙もだし、ただ悪を恣にして多くの者を虐げ、その残酷で陰険な振る舞いは口にするのも憚られるほどである。20年間大目にみてきたが、宗人や官僚への凌辱、権柄の濫用、朋党の結成、果ては朕の病躯の監視に至るまで、悪行は酷くなるばかりである。国主になる者が手当たり次第、勝手気儘に他人を侮辱し、暴力を振るうのはどういう了見か。末端の兵卒に至るまでその被害に遭わぬ者はない。実情を上奏した者は仇敵視されて、鞭打ちされる為、朕も迂闊に他の者に尋ねることもできはしない。陝西、江南、浙江などに巡幸する時、朕は粗末な小屋に寝るか、船内に止まるかして片足すら外へ出ることはなく、庶民の生活を邪魔することは決してせぬが、胤礽は取り巻きを引き連れてあちこち足を伸ばしては無礼三昧を働く。まことに口にするのも恥ずかしい。また、外藩蒙古の朝貢者を待ち伏せし、献納の馬を連れ去るなどして、朝貢者を怒らせたこともあった。数々の悪行、枚挙に暇なし。それでも自省し、改悛することを期待して今日まで我慢に我慢を重ねてきた。小さい頃から贅沢であった為、乳母の父にあたる凌普を内務府総管に任命してその入用を管理させようとしたが、あろうことか凌普自身が汚職に染まり、大勢の者の恨みを買った。幼い頃から、宮中のあらゆるものが庶民の汗と涙の賜物であると教え諭し、節約を言い聞かせてきたのに、その贅沢は益々ひどくなっていった。甚しきは、自らの兄弟を人とも思わぬ態度で、十八弟・胤祄 (胤礽の異母弟) が危篤になっても少しも憂いを見せず、あんまりだと言って叱責されると、カッとなって怒り出す。更に異けなるは、毎夜、朕の寝る行宮 (移動式の天蓋式住居) に忍び寄り、その布を匕首で裂いて朕の容態を監視することで、以前、胤礽の大叔父・ソンゴトゥを謀叛の廉で自害させたが、その仇を討とうと胤礽は朋党を結成し、朕は今日毒殺されるか、明日刺殺されるかと昼夜警戒せねばならず、気の鎮まる暇もない。祖先からの王業をこのような者に託してなるものか。胤礽のように、自らの母親の命を奪って生まれたものは古来不孝者と言われる (子貴母死)。朕ですら身につけるものは粗末で、絹など使わぬところを、胤礽は入用に糸目もつけず、それでも足りぬと国庫に手を出し、政治にまで首を突っ込むのであるから、国が破れ、民を滅ぼすまで止まらぬであろう。このような不孝不仁の輩を皇太子にしたら、伝来の王業はどうなるであろうか。
読み終えた康熙帝はあまりの悲しみにその場で崩れおち、大臣らが支えなければ立ち上がれないほどであった。[21]胤礽はその場で拘束され、皇長子・胤禔を監視役につけて京師へ押送された。[21]ソンゴトゥの二人の子・格爾芬、阿爾吉善、及び胤礽の側近・二格、蘇爾特、哈什太、薩爾邦阿には死刑が言い渡され、杜黙臣、阿進泰、蘇赫陳、倪雅漢の四人は盛京 (現遼寧省瀋陽市) へ配流となった。[21]連座さるべき者はあまりにも多く、少しの関与も疑い出せば切りがない。康熙帝は上記の者を断罪すると、それ以外については一律不問とした。[22]宣読をおえた康熙帝は悲哀極まり、京師へ向かう途上、六日間も眠れぬ夜を過ごした。[23]その後、北京への帰還の際に皇太子を正式に廃した。
胤礽が廃された後、皇長子の胤禔が皇八子の胤禩を新たな皇太子に推薦した。しかし、胤禩が反胤礽の中心人物であったことを知り、康熙帝は怒ってベイレの爵位を取り上げた。さらに、皇三子の胤祉が、胤禔はラマに頼んで廃太子に呪詛を仕掛けたと直訴した。胤祉の牧馬場にいたとある蒙古人ラマは、幼い頃から医術を習い、呪術に長けていた。それを知った胤禔がこのラマを含めた三人のラマとしばしば鳩合するようになったことから、胤祉は不審に感じるようになった。そしてそれをきいた康熙帝が、三人のラマらを拘束して事情を調査させたところ、ラマの供述から胤禔の計画が露顕し、ラマのいう通りに十数箇所を掘ってみると、果たして地中から呪術に使われる道具がみつかった。[24]胤禔は郡王の爵位を取り上げられ、監禁された。
その後、康熙帝は狩猟に出かける際に胤礽に会うと、胤礽は人が違ったように穏やかになっており、以前のことは思い出せないと語った。康熙帝は「やはり呪詛にかかっていたのだ」と言って喜び、康熙48年(1709年)春に再び皇太子に立てた。しかし、胤礽が諸大臣との宴会を通じて皇太子党なるものを築いたことを知ると、康熙帝は歩軍総領トホチ(託和斉)らを処刑し、胤礽は康熙51年(1712年)に再び廃立、幽閉された。
康熙帝が崩御すると、遺詔により皇四子の胤禛(雍正帝)が即位し、その翌年の雍正2年12月13日(1725年1月26日)、胤礽危篤の報せがその幽閉先から雍正帝の許へ伝えられた。雍正帝は、胤礽のフジンが康熙帝の生前にホショイ・フジン (親王の正室)[15]の身分で葬送されたことを承け、胤礽の臨終に際しては、同様に親王の身分で葬送し、遺体は鄭家荘に安置することとした。[25]翌14日、二阿哥・胤礽薨去。[20]
同月16日、雍正帝は、罪臣として死去した者を弔うべきではないと諌める大臣らを抑え、自ら胤礽の祭奠に参列し弔った。さらに、弘晳の母 (名不詳) を故理親王の側妃に冊封して、鄭家荘郡王府で同居させ、その外、侍妾などで子女のある者にも移住を許可し、移住を希望せぬ者にも別途住居を充てがって、余生を保障した。[26]
康熙61年に胤禛 (雍正帝) が践祚すると、允礽 (胤礽から改名) の子・弘晳は理郡王に冊封された。雍正2年に父・允礽が逝去し、同6年には親王に陞叙された。しかし乾隆4年、弘晳は自らを以て「東宮嫡子」(正統継承者) とした為、弘暦 (乾隆帝) により爵位を剥奪された。その後、允礽の第十子・弘㬙[28]が郡王を承襲し、45年に薨去すると、その子・永曖がベイレを承襲。その子孫は一つずつ品級を落としながら、最終的に輔国公を世襲し、仍孫の毓炤に至る。[9]
その外、允礽の第三子・弘晋、第六子・弘曣[29]、第七子・弘晀[30]、第十二子・弘晥が輔国公に冊封されている。弘曣[29]の子・永瑋は父の輔国公を承襲し、乾隆年間に宗人府左宗正、広州・黒龍江・盛京将軍を歴任した。弘㬙[28]の子・永曖の玄孫・福錕不詳は、光緒年間に体仁閣大学士に任命されている。[9]
以下は全て『清史稿』巻164に拠る。また、それぞれの爵位名称については「清代の爵位」を参考されたい。
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