包衣人
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包衣人(または包衣またはボーイ(・ニャルマ), 満文:ᠪᠣᠣᡳ/ ᠪᠣᠣᡳ ᠨᡳᠶᠠᠯᠮᠠ[1], メレンドロフ式転写:boo-i(-niyalma), 漢語(繁)では「包衣佐領管領下人」とも[2])は、清朝八旗制度において代々皇帝、宗室、王侯貴族の屋敷に奉仕した奴僕(召使)集団の呼称。[3]出自および管理上の区分により漢語で「佐領下人」、「管領下人」、「庄頭人」の三種に分類される。[4][5]主要な業務でも府員、護衛、随侍、庄頭、陵寝園寝守護など多岐に渡り、家政、供差役、随侍などに携わったことから「内八旗」とも呼ばれた。「外八旗」すなわち軍事職能的なグサ・ニル(ᡤᡡᠰᠠ ᠨᡳᡵᡠ, guūsa niru, 旗分佐領)と対をなす概念であるが、「内八旗」と雖も戦時には包衣人にも従軍の義務がある。[6]皇帝直属の上三旗包衣は「内務府属」または「内三旗包衣」、グーサ・イ・エジェン(旗主)[7]たる王侯貴族に隷属する下五旗包衣は「王公府属」と呼ばれ、[8]絶対的多数の包衣人は清朝入関の前に既に包衣として皇帝や宗室に奉仕していたとされる。[9]包衣人は賎民(奴隷)とは異なる。奴僕(召使)としての身分もあくまで皇室、宗室、王侯貴族に対する相対的なものであり、社会的には基本的に一般旗人(ᡤᡡᠰᠠᡳ ᠨᡳᠶᠠᠯᠮᠠ, gūsai-nyalma)と同等視された。[10]包衣人の中にも或いは階級が存在し、財産や家奴(奴隷)を擁していた可能性がある。[11]乾隆21(1756)年以降、八旗の生計の問題のために下五旗の漢人包衣が大量に放出され、包衣人口は日ましに减少した。清末の包衣人口は京旗すべての正戸[12]旗人の約11.7%であった 。[13]