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内務官僚・平岡定太郎の妻 ウィキペディアから
平岡 なつ(ひらおか なつ、1876年〈明治9年〉6月27日 - 1939年〈昭和14年〉1月18日)は、内務官僚・平岡定太郎の妻。通称は夏子、または夏。戸籍名はなつ。東京府士族・大審院判事・永井岩之丞の長女。作家・三島由紀夫(本名:平岡公威)の父方の祖母にあたる。幼年時代の公威に影響を与えた。
ひらおか なつ 平岡 なつ | |
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生誕 |
永井 なつ 1876年6月27日 日本・東京府東京市下谷区上野桜木町(現・東京都台東区上野桜木) |
死没 |
1939年1月18日(62歳没) 日本・東京市小石川区駕籠町(現・文京区本駒込) 山川内科医院 |
死因 | 潰瘍出血 |
墓地 | 日本・青松寺 |
国籍 | 日本 |
配偶者 | 平岡定太郎 |
子供 | 梓(長男) |
親 | 永井岩之丞(父)、高(母) |
親戚 |
松平頼救(曾祖父)、松平乗尹(養曾祖父) 松平頼位(祖父)、糸(祖母) 三好長済(祖父)、永井尚志(養祖父) 松平頼徳(異母伯父)、松平頼安(伯父)、松平頼平(叔父) 壮吉(兄)、亨、啓、繁、敦(弟) 鐘、愛、千恵、清子、文子(妹) 永井三明、磯崎叡(甥) 公威、美津子、千之(孫) 紀子、威一郎(曾孫) |
1876年(明治9年)6月27日、父・永井岩之丞と、母・松平鷹(のちに高)との間に長女として生まれた[1]。母・高は、常陸宍戸藩主・松平頼位と、新門辰五郎の姪にあたる側室(佐々木氏の娘)との間に生まれた三女である[1]。
1888年(明治21年)、12歳で有栖川宮熾仁親王の屋敷に行儀見習いとして仕える[1][2]。1893年(明治26年)11月27日に、17歳で平岡定太郎と結婚するまでの約5年間、有栖川宮に仕えた[1][2]。1894年(明治27年)10月12日、定太郎との間に一人息子の梓を儲ける[1]。
1924年(大正13年)に長男・梓が、橋倭文重(東京開成中学校の5代目校長・橋健三の次女)と結婚し、翌1925年(大正14年)1月14日、息子夫婦の間に長男・公威が誕生[1][3][4]。49歳の夏子は、初孫の生まれた49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実の下、公威を両親から奪い自室で育て始める[2][5]。嫁の倭文重が授乳する際も、夏子が時間を計ったという[2][5]。
坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多い夏子は、家族の中でヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびだった[2][6]。車や鉄砲などの音の出る玩具は御法度で、公威に外での男の子らしい遊びを禁じた[2][6]。遊び相手は女の子を選び、女言葉を使わせたという[6][7]。公威を「小虎」、「小虎ちゃん」と呼び、溺愛した[1][4]。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は自家中毒に罹り、死の一歩手前までいった[2][5]。病弱な公威に対し、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育を行った[6][5]。また、夏子は、歌舞伎や能、泉鏡花などの小説を好み、後年の公威の小説家および劇作家としての作家的素養を培った[8]。
1937年(昭和12年)4月、公威が学習院中等科に進み、両親の転居に伴い、夏子のもとを離れる[3][7]。
1939年(昭和14年)1月18日、潰瘍出血のため小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)の山川内科医院で死去(享年62)[3]。
夏子は幼少の頃から癇症であったという[1]。生活環境が変れば、気持も落ち着くはずと、有栖川宮家へ行儀見習いに5年間預けられたとされる[1]。
夏子の弟・大屋敦(元住友本社理事、日銀政策委員)は、「私の履歴書」(日本経済新聞 1964年に連載)の中で以下のように語っている[9]。
夫の平岡定太郎との夫婦仲については、『月刊噂』1972年8月号に掲載された「三島由紀夫の無視された家系」よれば、以下のように解説されている[10]。
なんといっても帝大出の“学士さま”である。“学士さまならお嫁にやろか”といわれた時代だから奈徒も不自然なく嫁いできたものと思える。奈徒は父は永井玄番頭の嗣子、その母は宍戸藩の松平頼位の娘、松平大炊守の妹というれっきとした名流の士族であった。百姓の定太郎が士族の娘を嫁にもらえたのも“学士さま”のお蔭であったろう。平岡家の家系には、このときはじめて名血と結びついた。しかし奈徒という女性は非常に気位が高く気性もはげしかった。徳川家重臣の嫡流という意識を強く持ち、その上に美貌であったから、一介の百姓生まれの定太郎を内心では軽蔑していたようである。つね日頃から、「お殿様と駿河へ行って……」という話をし始めると、それは永井家が家臣として最後まで徳川慶喜と行動を共にしたというプライドからくるものであった。語学にも堪能で、ドイツ語、フランス語を七十歳すぎても流暢に読んだり話したりすることができたともいう。定太郎は原敬に重用された性格でわかるように、能吏というよりは事業家肌であった。 — 「三島由紀夫の無視された家系」[10]
また、長男の平岡梓は両親の不仲の要因について自著にて以下のように語っている[2]。
越次倶子は、「なつの生まれながらの癇症が、自分をかえりみてくれなかった夫定太郎への憎しみへと移り、やがて三島への偏愛となった」という見解を示している[11]。
野坂昭如は、行儀見習いに行っていた間の夏子のことを想像し、夏子がその時の体験を孫の三島に語っていたのではないかと以下のように推察している[12]。
有栖川宮熾仁には、男子が1人しかいない。威仁といい、定太郎より一つ年上。威仁の青年期と、なつの行儀見習いの時期は一致する。
威仁となつの間に恋が生まれても不思議はない。そしてこの二人も、正式に結ばれるには階級が違う。(中略)結婚には天皇の許可を必要とした。そのまま「春の雪」の舞台なのだ。
なつの気性からして、悲恋に終ることは覚悟の上、武張ったその父とは違い、海軍に籍はおきながら、祖父の雅やかな血筋を受ける威仁を、この聡明にして美しい娘が愛したとして不思議はない。(中略)
三島もなつに、さんざん昔話を聞かせられたはずだ。(中略)宮家での生活、なつは、威仁親王への恋心を、この上なく美しく物語った。 — 野坂昭如「赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫」[12]
私の母の生まれた家もやはり小大名で、水戸烈公の弟の家であります。長兄松平大炊頭、頼徳は有名な武田耕雲斎の乱のときに幕府から切腹を仰せつかり、家系ともどもみな切腹してしまいました。私の母は、家は貧しかったのでありますが、そこの家の娘として育って、十六歳ぐらいのころに私のおやじのところへ嫁に参りまして、その間に初めて十二人の子供ができたのであります。(中略)そんな訳で、母は水戸の宍戸藩の藩主の家でありますが、私の血筋には江戸っ子と水戸っ子の両方が伝わっておるのであります。(中略)かように母の家は格式は高いが小藩で、維新後は貧乏華族の一つであった。(中略)十二人の子を産み、貧乏暮らしに一生を終わった。母はそういうことをうらみにも思わず、不平もこぼさず、父なき後は、たくさんの子供たちとその友だちにかこまれ、関東大震災後、上野東照宮社務所の一室で安らかに世を去った。 — 大屋敦「私の履歴書」[9]
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