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1758-1841, 江戸時代後期の江戸幕府御家人、国学者 ウィキペディアから
屋代 弘賢(やしろ ひろかた)は、江戸時代中期から後期にかけての江戸幕府幕臣・国学者。通称は太郎。号は輪池[1]。
江戸神田明神下の御家人屋代忠太夫佳房の子として誕生。初名は詮虎。その後、諱を詮賢、弘賢、詮丈の順に改める。
7歳の時から幕府右筆森尹祥に書を学び、安永8年(1779年)22歳で家督を継いだ。天明元年(1781年)西丸台所に出仕した。柴野栗山に従い、天明2年(1782年)に幕府の表右筆として出仕する。天明6年(1786年)、本丸附書役となる。寛政5年(1793年)、奥右筆所詰支配勘定格となり、文化元年(1804年)3月、勘定格として御目見以上(旗本)に昇進した。文化2年(1805年)、ロシアに対する幕府の返書を清書した。
塙保己一に国学を学んで『群書類従』の編纂に加わる。後に和学講談所の会頭を務めた。死没時は、奥右筆所詰奥右筆格。有職故実・書誌学に優れていた他、仕事柄能書家としても知られていた。幕命によって『寛政重修諸家譜』・『古今要覧稿』・『集古十種』の編纂にも従事した。京都・大和の古社寺を訪れ古宝物の調査をしたときの記録『道の幸』を著している。柴野栗山・成島司直・小山田与清・大田南畝・谷文晁らとも親交があった。
また、弘賢は蔵書家としても知られ、上野不忍池のほとりに蔵書5万冊を納めた書庫を築いて「不忍文庫」と命名され、蔵書目録『不忍文庫目録』(朝倉治彦編『屋代弘賢・不忍文庫蔵書目録』全6巻 ゆまに書房、2001年)に出版されている。
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