小西伯熙
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小西 伯熙(こにし はっき、 寛延元年(1748年) - 文政2年11月16日(1820年1月1日))は江戸時代の文人。丹後国湊(京都府久美浜町)五軒家下屋家2代目。本業は廻船問屋。日間浦(久美浜湾)に聚景楼を建てて十二景を定め、大坂で混沌詩社中等と交流した。
寛延元年(1748年)丹後国熊野郡湊(京都府熊野郡久美浜町湊宮)の廻船問屋下屋与右衛門家に生まれた[1]。京都で江村北海に経学・詩文、鉅鹿某に明楽を学んだほか、棋を除く琴棋書画等を嗜み、琴詩酒書画禅道人と号した[2]。
20歳頃日間浦(久美浜湾)に貫月楼を建て、後に聚景楼と改称した[2]。大坂では主に混沌詩社中と交流し、玉江橋北にある葛子琴の御風楼西隣に観水館を建てた[3]。寛政7年(1795年)帰郷し[4]、葛子琴の勧めで『松江近体詩』を刊行した[3]。
文政2年(1819年)11月16日死去し、宝泉寺裏山墓地に葬られた[4]。法名は天真伯熙居士[4]。辞世は「沢庵の辞世は夢のたゝ一字我も辞世は無の一字なり」[5]。
下屋(しもや)家は丹後国熊野郡湊(京都府熊野郡久美浜町)の名家五軒家の一つで、小西隠岐守盛信を祖とする小西本家の分家新シ家の分家[11]。
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