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小福田 租(こふくだ みつぎ、1909年(明治42年)10月18日[1] - 1995年(平成7年)7月29日)は日本の海軍軍人、航空自衛官である。海軍兵学校(第59期)卒。最終階級は海軍で海軍中佐、自衛隊で空将。ペンネームは小福田 晧文 (こふくだ てるふみ)。
1909年(明治42年)10月、岡山県津山に生まれる。1928年(昭和3年)3月、岡山県立津山中学校(現:岡山県立津山高校)卒業し、同年4月、江田島海軍兵学校第59期に入校。1931年(昭和6年)11月、海軍兵学校卒業。1933年(昭和8年)4月、第25期飛行学生を卒業。1934年(昭和9年)、大村海軍航空隊で戦闘機課程を受ける。周囲の勧めもあり、結婚を考えて海軍省に結婚願いを提出し、晩秋に「結婚認可書」を受けとるも、すぐに「戦地に転勤を命ず」という辞令がきたので、婚約を解消した[2]。
1935年(昭和10年)12月、空母「加賀」飛行隊に配属。1936年(昭和11年)、大湊海軍航空隊に配属。1937年(昭和12年)12月、空母「龍驤」飛行隊に配属。1938年(昭和13年)6月、第十二航空隊に配属。同年12月、大分海軍航空隊に配属。1940年(昭和15年)11月、海軍航空技術廠飛行実験部に配属。1942年(昭和17年)7月、第六航空隊(のち第204海軍航空隊)に配属。1943年(昭和18年)4月6日、横須賀海軍航空隊に配属。4月15日、厚木海軍航空隊に配属。6月、海軍航空技術廠飛行実験部に配属。烈風の研究と開発に参与。零戦、銀河を使って反跳爆撃の実験に従事している[3]。
1945年(昭和20年)8月15日、終戦を三沢基地(三沢飛行隊)で迎える。
戦後は、1952年(昭和27年)7月、警察予備隊に入隊し、1954年(昭和29年)7月、航空自衛隊の発足とともに転官。1960年(昭和35年)9月、第1航空団司令。1962年(昭和37年)4月、航空幕僚監部人事教育部長。1963年(昭和38年)3月、飛行教育集団司令官。1965年(昭和40年)7月、中部航空方面隊司令官。1967年(昭和42年)3月31日、航空自衛隊を退官。 その後、日本無線株式会社取締役営業部長、ペルテック株式会社取締役工場長を歴任[4]。1995年(平成7年)7月29日、逝去(享年85)。
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