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日本の佐賀県(肥前国)にあった郡 ウィキペディアから
古くは「をき」と読んだ。小城の地名は、肥前国風土記にある土蜘蛛が防御に利用した「堡(おき)」(砦(とりで))に由来するといわれている。 『和名抄』の中で、国府の名称として「乎岐(おぎ)国府」と書かれた場合もある。
元寇により、下総の千葉氏が、異国警固番役として同郡に所領を得る。後に、土着して祇園城(千葉城)を本拠として、佐賀郡、杵島郡にも勢力を広げる。1471年に、日本を訪れた李氏朝鮮の使臣・申淑舟の著書『海東諸国記』にも肥前国最大の勢力として千葉氏の名を挙げている。
室町時代後期には、千葉氏は龍造寺氏とともに少弐氏を支えている。応仁の乱の頃に、千葉氏は家督争いで東西に分裂して、衰退した。祇園城の東千葉氏(祇園千葉氏)は大内氏と結び、晴気城の西千葉氏(晴気千葉氏)は少弐氏と結んで互いに争った。東千葉氏の滅亡後は、千葉家旧臣たちはそのまま川久保神代家の家臣になった。西千葉家は、千葉胤連のときに龍造寺隆信に従って配下になった。
江戸時代に全域が佐賀藩領になり、大部分は小城藩になっている。小城藩は佐賀藩の支藩で、初代佐賀藩主・鍋島勝茂の長男・元茂が佐賀藩領内の佐嘉郡・小城郡・松浦郡において7万3000石(佐賀藩の内高)を与えられたことで始まる。
北郷、西郷、平吉郷、山内郷
知行 | 村数 | 村名 | |
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藩領 | 肥前小城藩 | 1町 36村 |
八反原村、下熊川村、内野村、上熊川村、古湯村、苣木村、鎌原村、市川村、杉山村、畑瀬村、栗並村、麻那古村、中原村、大野村、大串村、上無津呂村、下無津呂村、古場村、上合瀬村、下合瀬村、藤瀬村、牛津町[2]、金田ヶ里、堀江村、道免村、川越村、八枝村、柿樋瀬村、織島ヶ里、畑田ヶ里、下古賀村、船田ヶ里、甲柳原ヶ里、石木ヶ里、三ヶ島ヶ里、栗原ヶ里、永田村[3] |
肥前佐賀藩 | 1町 12村 |
多久町[4]、板屋村、小侍村、多久原村、別府村、下多久村、納所村、晴気村、三間寺村[5]、芦刈村、上砥川村、下砥川村、長尾村[3] | |
佐賀藩・小城藩 | 1町 9村 |
池上ヶ里、岩蔵村[6]、松尾村、長神田ヶ里、小城町、久米ヶ里、道辺ヶ里、樋口ヶ里、乙柳ヶ里、勝ヶ里 |
明治22年以前 | 明治22年4月1日 | 明治22年 - 昭和19年 | 昭和20年 - 昭和34年 | 昭和35年 - 昭和64年 | 平成1年 - 現在 | 現在 | |
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小城町 | 昭和7年4月1日 小城町 |
小城町 | 小城町 | 平成17年3月1日 小城市 |
小城市 | ||
三里村 | |||||||
晴田村 | |||||||
岩松村 | |||||||
三日月村 | 三日月村 | 三日月村 | 昭和44年1月1日 町制 | ||||
芦刈村 | 芦刈村 | 芦刈村 | 昭和42年4月1日 町制 | ||||
牛津村 | 明治27年4月24日 町制 |
昭和31年9月30日 牛津町 |
牛津町 | ||||
砥川村 | 砥川村 | ||||||
昭和31年9月30日 杵島郡 江北町に編入 (下砥川の一部) |
杵島郡 江北町 |
杵島郡 江北町 |
杵島郡 江北町 | ||||
北多久村 | 北多久村 | 昭和24年4月1日 町制 |
昭和29年5月1日 多久市 |
多久市 | 多久市 | 多久市 | |
東多久村 | 東多久村 | 東多久村 | |||||
南多久村 | 南多久村 | 南多久村 | |||||
多久村 | 多久村 | 多久村 | |||||
西多久村 | 西多久村 | 西多久村 | |||||
北山村 | 北山村 | 昭和31年9月30日 佐賀郡 富士村の一部 |
昭和42年10月1日 町制 |
平成17年10月1日 佐賀市の一部 |
佐賀市 | ||
南山村 | 南山村 |
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