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安田 国継(やすだ くにつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は作兵衛。講談では安田作兵衛の名で知られ、明智三羽烏の一人とされている[注釈 1]。
はじめ、織田氏の重臣・明智光秀配下の斎藤利三に仕えた。天正10年(1582年)に光秀が主君・織田信長に対して起こした本能寺の変では、その先鋒となり出陣。信長を槍で攻撃し、行く手を阻んだ森成利(蘭丸)に十文字槍で下腹部を突かれるも、これを討ち取る功を挙げたという武勇伝がある[注釈 2]。
ところが明智氏が山崎の戦いにて敗走すると、出奔して天野源右衛門と改名して浪人した。羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷と仕えたがいずれも長続きしなかった。
立花宗茂に仕え、豊臣氏による九州平定にて功があったという。また、文禄・慶長の役では朝鮮へ出陣。講談では『天野源右衛門覚書』(『 立花朝鮮記』または『朝鮮軍記[3]』)を執筆したことになっているが、これは幕末に別人[注釈 3] が書いた偽書(赤本)で、フィクションである[4]。
最後は寺沢広高に仕え、8,000石を有した。なお『翁草』によれば、若き日の国継と寺沢広高が、どちらかが立身出世したら、もう片方を十分の一の俸禄で召抱える約束をしたといわれる。晩年は姓を平野に改名した。
慶長2年(1597年)に死去。享年42。死因は頬の出来物の悪化を苦にしての自害という。なお、死んだ日は織田信長の命日と同日であり、信長を刺した祟りと噂された。墓所は佐賀県唐津市浄泰寺。法名、善要智仙人禅定門[1]。
現在、東京都の銀座の路地裏に鎮座する豊岩稲荷神社は、安田国継が同地に祀ったものだと伝えられている。
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