Loading AI tools
ウィキペディアから
秋田県横手市出身。沼館小学校時代はミニバスケットボールをしていた。当時から身体能力が高く、5年生ながらレギュラーに定着していた。同じチームの1つ上の学年には元トヨタアルバルクの半田圭史がいた。父(秋田県立雄物川高等学校元校長)の勧めでバレーボール(十文字クラブ)を始める。
高校時代まではアタッカーをしていたが、東海大学時代から本格的にセッターを始める。2001年に全日本代表に初選出され、大学卒業後の2002年にNECブルーロケッツへ入団した。
現役時代は抜群の身体能力を生かしたトスワークが特徴であった。
2003年ワールドカップ、2004年アテネオリンピック世界最終予選には全日本の司令塔として出場、2005年の植田代表監督就任後の新生全日本にも招集されたが指導者の父の跡を継ぐために現役を引退して地元秋田へ帰郷することを決意し、2006年の全日本代表を辞退。引退前に全日本代表オポジットの山本隆弘と同じチームでプレーをするためNECからパナソニックパンサーズヘ移籍した[1]。
そして迎えた2007年アジア選手権で代表復帰し、2007年ワールドカップでは全試合出場を果たす。自身2度目の挑戦となった2008年北京オリンピック世界最終予選を経験し、北京オリンピックに出場した。しかしどちらの大会でももう一人のセッターの朝長孝介に正セッターの座を明け渡すこともあった。
2009年ワールドグランドチャンピオンズカップには主将として出場し全日本男子にとって32年ぶりとなる銅メダル獲得に貢献した。また天皇杯・皇后杯全日本選手権のパナソニックの優勝にも貢献した。
2010年、Vプレミアリーグのパナソニックの2年ぶりの優勝、黒鷲旗大会3連覇に貢献し、ベスト6に選出された。
同年6月に両足首を手術。11月の広州アジア大会で、約1年ぶりに全日本代表復帰して金メダル獲得に貢献した[2]。
2012年11月、2012/13シーズンをもって現役を引退することを発表[3]。2012/13シーズンファイナルラウンド決勝戦の堺ブレイザーズ戦が最終試合となった[4]。
引退後は公立高校教員(地方公務員)となり、2013年4月からは秋田県立大館鳳鳴高等学校の教員となり1年間勤務した後[5]、2014年4月から人事異動により母校の秋田県立雄物川高等学校に配属され、同校の教員を務めると共にバレーボール部監督に就任した[6]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.