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1089-1163, 宋代の臨済宗の僧。諡は普覚禅師。 ウィキペディアから
大慧宗杲(だいえ そうこう、だいえ しゅうこう)は、中国の宋代の臨済宗楊岐派第5代の僧[1][2]。諡号は
宣州寧国県の出身[1]。16歳で出家し、
その後、張九成の帰依を得たことからその政争に連座して、衡山(現在の湖南省衡陽市)に、またのちに梅州程郷県に流罪となり、衡山では『正法眼蔵』を著す[1][2][3]。69歳の時に許されて、径山に再住し、看話禅(公案禅)を挙揚した[1][3]。径山の他に
隆興元年8月10日(1163年9月9日)、示寂[3]。著書に『大慧語録』『大慧武庫』などがある[1]。『大慧語録』30巻は大蔵経に編入された[3]。
曹洞宗に属した宏智正覚と、真の禅法をめぐって激しく対立した。宗杲は、公案を用いることによって言語による思考に大きな疑問を抱えつつ坐禅し、その疑問を打ち破ることにより悟りへと向かうという、臨済宗の禅法を正しいものと認めた。対立する正覚は、悟りという目標を設定することによって無明と悟りという二元論的構造が生じることを避けるために、坐禅すること自体が坐禅の目的であるような自己完結的な禅法の中で本来具有している仏性が顕れるとしたので、宗杲はこれを「黙照禅」と呼んで批判した。
この臨済宗と曹洞宗の理論的な対照は、宗杲と正覚の当時から現在の日本にまで継続している。しかし当時の中国社会では、宗杲の理論が支持を受け、臨済宗が大いに隆盛することとなった。
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