広島市中区の地名 ウィキペディアから
吉島(よしじま)は、広島市中区に位置する地区である。この項目では、かつて「吉島」の一部であった「羽衣町」及び「光南」についても記述する。
画像外部リンク | |
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アメリカ国立公文書記録管理局が所有する米軍撮影写真による被爆後の吉島。 | |
Hiroshima aerial A3412 手前が元安川、右上に広島刑務所の塀が見える。 |
広島県を流れる太田川の河口部に位置し、北側に住吉神社のある中区住吉町(すみよしちょう)があり、南側は広島湾、西側は旧太田川(本川)を挟んで中区江波(えば)地区、東側は元安川を挟んで中区千田町と隣接している。平和記念公園のある中区中島町から南吉島までの旧太田川(本川)と元安川に挟まれた地域が陸続きとなっており、広義には概ね住吉町以南から南吉島までの地域を指す。
広島城築城以前の吉島は「葭島」(よしじま)と呼ばれる広島湾頭の小さな砂州に過ぎなかった。しかし藩政期に入り、1661年頃に中島・水主町以南の広島湾を埋め立て「水主町新開」(かこまちしんがい)および「吉島新開」(よしじましんがい)が開発されると地続きになった。吉島新開は明治期までに現在の吉島東・吉島西地区の大部分が造成され(当時の海岸線の一部が現在のカーブした街路に残っている)、1882年に吉島村、さらに1916年に吉島町と改称されている。戦時期の1940年にはさらに沖合(現在の吉島新町・光南に相当)が埋め立てられ、陸軍飛行場が建設された。第二次世界大戦後にも埋め立てがなされ、現在の南吉島の一部となった。
先述のように古くは「葭島」とも表記した吉島の名は「葭の茂っている中州」を意味すると言われる。
羽衣町を含む現在の吉島地区は、かつては「吉島新開」(- 1882年)⇒「吉島村」(1882 - 89年)⇒「(大字)吉島」(1889 - 1916年)⇒「吉島町」(1916年 - )として、1933年吉島町・吉島羽衣町・吉島本町に分割されるまでは一つのまとまった町域であった。
以下、新旧町名の異同を記す(強調は現在の町名)。
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広島バス[5]が路線バスの24号(吉島線)、50号(東西線)を運行している。
ほか
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