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鎌倉時代後期の武士 ウィキペディアから
北条 宗方(ほうじょう むねかた)は鎌倉時代後期の北条氏の一門。長門探題・北条宗頼の次男。鎌倉幕府8代執権北条時宗の甥にあたり、その猶子となる。
誕生の翌年に父宗頼が長門国で死去する。20歳で六波羅探題北方。正安2年(1300年)に鎌倉へ戻り評定衆。翌年には引付頭人から越訴頭人就任となる。
五位への叙爵は17歳だが、このときまだ兄兼時は存命であり、それでも兄よりは2歳早い。評定衆となった歳は23歳であり、従兄弟で北条貞時のあと執権となった北条師時(19歳)よりは若干遅いが、それでも1295年(永仁3年)に没した兄兼時の32歳よりもずっと早い。また北条庶流の名門で貞時執権時の連署大仏北条宣時の嫡子で、嘉元の乱で宗方を討った大仏北条宗宣が評定衆となったのは29歳、赤橋北条久時は27歳である。これは兄弟の居ない北条貞時が成人してから、もっとも近い血縁としての従兄弟、かつ父時宗の猶子として義兄弟ともなる師時、兼時、宗方の官位や昇進を早めたものと推測され、貞時には庶流というより得宗家の一員として扱われていたと思われる。
1301年(正安3年)には引付頭人を経て越訴頭人となる。1304年(嘉元2年)12月、平禅門の乱以降人事が迷走した得宗家執事(内管領ともいわれる)に北条一門として初めて就任する。同時に幕府侍所所司に就任。このとき27歳。
『保暦間記』によれば執権職への野心を抱いて挙兵し、嘉元3年(1305年)4月、貞時の有力重臣で連署を務めていた北条時村を殺害。さらに貞時殺害も目論んだが、同年5月4日に貞時の命を受けた北条宗宣率いる追討軍によって殺されたとされる(嘉元の乱)。ただし『保暦間記』の記述は、霜月騒動や平禅門の乱の原因についてもあまり信憑性はなく、嘉元の乱についても、京の公家の日記等と突き合わせると如何にも不自然であり疑問視されている。動かしがたいのは以下の範囲である。
※日付=旧暦
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