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大阪府守口市にある神社 ウィキペディアから
佐太天神宮(さたてんじんぐう)は、大阪府守口市佐太中町にある神社。旧社格は村社。大阪みどりの百選に選ばれている。「佐太えびす」とも呼ばれる。
「佐太天神宮記」によると、現在当社がある場所は菅原道真の領地であり、道真が昌泰4年(901年)の昌泰の変で失脚して太宰府に左遷されることになった際にこの地に立ち寄り、しばらく舟をつないで滞在していたが、出立に際して自身の木像と自画像を残したとされている[1]。また、一説によると道真が当地に滞在したのは宇多上皇の計らいにより無実の証明がなされることを期待して、都からの沙汰を待っていたためとされており、この「沙汰」が転訛して地名が佐太になったとされる[2]。道真没後50年後の天暦年間(947年 - 957年)に、道真を慕う里人によって道真が残した自刻の木像をご神体として祠を建てたのが当社の始まりであるとする[3]。
以降は河内国茨田郡大庭荘の惣社となり、天正8年(1580年)に小出秀政が、次いで大坂夏の陣の戦後、元和元年(1615年)に秀政の子で岸和田藩主となった小出吉英により社殿が再興された[1]。
その後、淀藩主である永井尚政によって寛永17年(1640年)に本殿、慶安元年(1648年)に拝殿、幣殿、神門(石門)、神饌所、絵馬所、宝庫が造営されている[4]。しかし、費用を出したのは道真を崇敬する大坂の豪商・淀屋重當である[5]。延享3年(1746年)初演の『菅原伝授手習鑑』にある「佐太村の段」はこの神社がゆかりとなっている[4]。また、享和元年(1801年)に発刊された『河内名所図会』にも見える江戸時代の景観を現在まで残している[4]。
明治時代になると村社に列せられている。また、明治時代の初期までは、1月、5月、9月に連歌会が開催され、連歌が奉納されていた。
境内の南には来迎寺がある。
境内は高さ20mを超える大樹など深い森におおわれており、大阪府の「大阪みどりの百選」に選ばれている[6]。また、長年にわたり奉賛会の氏子崇敬者によって梅が植栽されており、本殿から境内にわたって梅に彩られており初春の名所となっている[7]。
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