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古代日本の人物 ウィキペディアから
清彦(きよひこ)、または、但馬 清彦(たじま の きよひこ)は『日本書紀』等に伝わる古代日本の人物。『古事記』では清日子と表記されている。
『古事記』には名前だけ掲載されており、天之日矛の4世の子孫で、多遅摩毛理の弟。『日本書紀』では天日槍の3世の子孫で、田道間守(たじまのもり)は子に当たる。
『日本書紀』巻第六によると、垂仁天皇は、
群卿(まへつぎみ)に詔して曰く、「朕(われ)聞く、新羅の王子(せしむ)天日槍初めて来(まうこ)し時に、将(も)て来(きた)れる宝物(たから)今但馬(たぢま)にあり、元(はじ)め国人(くにひと)の為(ため)に貴(たふと)びられて則(すなは)ち神宝(かむだから)と為(な)れり。朕、その宝物を見欲(みまほ)し」とのたまふ。即日(そのひ)に使者(つかひ)を遣(つかは)して、天日槍の曾孫(ひひこ)清彦(きよひこ)に詔して献(たてまつ)らしめたまふ。是(ここ)に、清彦、勅(みことのり)を被(うけたまは)りて、乃(すなは)ち自ら神宝を捧げて献(たてまつ)る[1]。 訳:群卿に詔して、「私が聞いたところでは、新羅の王子、天日槍が初めてやって来た時に、手にして来た宝物は今は但馬にあり、第一に国人のために貴ばれて即座に神宝となっている。私はその宝物を見たいと思う」とおっしゃった。即日、使者を派遣して、天日槍の曾孫の清彦に詔して献上させなさった。そこで、清彦は、勅をうけたまわって、そして自分で神宝を捧げて献上した。
清彦の祖先は小さな舟で但馬国に現れ、新羅の王の子だと名乗った天日槍であり、その国に済む前津見(まえつみ)の娘、麻柁能烏(またのお)をめとって生まれた、諸助(もろすく)の孫にあたると記されている。
清彦は神宝の中でも、にわかに「出石」という小刀だけは天皇に渡してはなるまいと思い立ち、衣の下に隠してしまった。ところが天皇が清彦をねぎらおうとして酒を与えられた際に見つかってしまった。清彦はやむなくこれも神宝の1つだと答え、献上することにした。小刀はほかの神宝とともに石上神宮の「神府」(みくら)におさめられた。
だが、その後、「宝府」(みくら)を開けてみくると、小刀は自然に失われていた。そこで清彦に尋ねると、「昨夕、刀子がひとりでに自分の家にやってきて、今朝はなくなっていました」と答えた。天皇は神威を感じ、かしこまってそれ以上何も聞かずに、再び刀子を求めることはなかった。
出石の刀子はそののち、ひとりでに淡路島に到着して、島の人に神様として崇められ、祠を立てられて、祭られている、という。この刀子は淡路島の生石神社に祭られている。
『書紀』の記述に従うと、その2年後の2月、垂仁天皇は田道間守(たぢまのもり)に非時香実(ときじく の かくのみ)を求めさせた[2]。だがその9年後の7月、天皇は帰らぬ人となり[3]、田道間守が常世国からかえってきたのはその翌年の3月12日だった[4]。
天日槍の子孫として、三宅連、橘守、糸井造が田道間守の末裔であると、『新撰姓氏録』には記載されている。
天之日矛の神宝は、
「ひれ」からは、航海術との関連が見られる。『書紀』の別伝の伝えるように、須佐之男命が船を造ったという説話から、日矛の故郷、新羅が航海の発達した国だということが分かる。朝鮮半島南部からは、船型の陶器が出土している。
出石の小刀、鉾には、日矛集団が持っていた大陸の鉄文化との関連性が窺われる。鉾は「日矛」の矛であり、小刀にも通じる。
『播磨国風土記』の揖保郡(いいぼぐん)揖保里(いいぼのさと)条によると、
粒丘(いひぼのをか)と号(なづ)くる所以(ゆゑ)は、天の日槍の命、韓国(からくに)より度(わた)りて、宇頭(うづ)の川底(かはじり)に来到(きた)りて宿処(やどり)を葦原の志挙男(あしはらのしこを=大国主神)に乞ひけらく、「汝(いまし)は国の主(あるじ)なり、吾(あ)が宿らむ処を得まく欲(おも)ふ」と云ひしかば、志挙男すなはち海の中を許しき。その時客(まれびと)の神、剣もて海水(うしほ)を撹(か)きて宿りき。主(あるじ)の神すなはち客の神の盛行(わざ)を畏(かしこ)みて先に国を占めむと欲(おもほ)して、巡りて粒(いひぼ)の丘に上り到りてみをしき。ここに口より粒落ちき。故(かれ)、粒の丘と号く。その丘の小石、比(ひと)しく粒に似たり。又、杖もて地(つち)に刺ししかば、やがて杖の処より寒泉(しみづ)湧き出てて遂に南北へ通へり。北は寒く、南は温し。
日槍が海水をかきまわしたものは剣である。つまり、この刀は日矛一族の象徴である。「天之日矛」という名前自体が日本語であり、新羅の王子の名前ではなく、集団(一族)の信奉した祭器の名前であったのではないか、と直木孝次郎は述べており、三品彰英のいうような天的宗儀ではなかったか、としている。
この「ひれ」と「刀」の相違であるが、日矛一族が出石に上陸してから、製鉄技術により鉄剣を造ったと見ることができる。神宝の数の相違や、その種類の変遷も、日矛一族が日本の国土に親しんでいった過程を示している。最後の神籬は、神の降下を待つところ、即ち神を祭る宮である。また、そこに供える物(肉、餅など)の意味もある。
刀子についてであるが、但馬の朝来市和田山町城ノ山古墳からは刀子9本、 豊岡市城崎町の二見谷四号墳からも同数出土されている。但馬では刀子が多く生産され、胆狭浅の太刀のようなものは、あまり作られなかったようである。清彦がこの刀子のみを守ろうとしたのは、このような背景があった。
もっとも、これには別の見方もある。三品彰英は、天日槍との血のつながりから、祖霊の象代としての刀子に奉仕する清彦の姿を強調し、刀子の淡路島への移動を日矛の遍歴と同じ概念だと述べている。淡路島の五斗長垣内遺跡の鉄工所は紀元1世紀ごろものとされており関係性が示唆される。
清彦の時には神宝を守り通して、氏族の意地を見せた日矛一族も、次の代の田道間守の時には、大和政権にとって望ましい形にかえられていった。
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