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鎌倉時代から南北朝時代にかけて流行した大和絵系の肖像画を指す絵画用語 ウィキペディアから
人物や牛馬の容貌を像主に似せて描いたもので、写実性・記録性が強い。したがって、尊崇や礼拝のために理想化された肖像画や禅宗における頂相などを似絵とは呼ばない。特色としては、細い淡墨線を引き重ねて目鼻だちを整え、対象となる人物の特徴を捉えようとする技法を用いていること、また、作品の多くが小幅の紙本に描かれていることが挙げられる。
平安時代以前には、一般に自身の容貌があからさまに描かれることをはばかる傾向があり[1]、肖像画といえば、およそ高僧像が中心で、世俗人物の肖像は稀であった。このような傾向に変化が生じたのは平安末期のことである。『玉葉』[2]によれば、承安3年(1173年)に建春門院の発願で成った最勝光院御堂の障子絵には、常盤光長によって平野行啓・日吉御幸や高野御幸の有様が描かれたが、実際に供奉した公卿の面貌だけはその道に堪能な藤原隆信が手掛けたという。また、『吉記』[3]によると、四天王寺の念仏堂には、後白河上皇の仰せによって藤原隆能が描いた鳥羽上皇の御影(崩御後の供養像であろう)が安置されていたという。これらの作例は何れも現存しないが、似絵の先駆的作品として位置付けることが出来るものである。
この画法は隆信の子信実によって大成され、似絵としてのジャンルが確立された。その後、隆信-信実の家系は14世紀前半の豪信に至るまで、次々と似絵画家を輩出した。現存する代表的な似絵は、この画派(隆信派と呼ぶことがある)が関わったとみられる作品が多い。豪信以後、似絵技術が継承された形跡はない。その理由として、家系内で技術を継承する者がいなかったことにも因るだろうが、頂相に代表される似絵的な写実的描法が社会に広がり、発展的に消滅したと考えられる。
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