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伝単(でんたん)とは、戦時において敵国の民間人、兵士の戦意喪失を目的として配布する宣伝謀略用の印刷物(ビラ)。その語源は物事を伝える紙片という意味の中国語である。
西洋では古くから用いられた戦略的な宣伝手段で、フランスでの市民蜂起「パリ・コミューン」においてフランス政府が上空より気球で撒いたものが最初といわれている。
日本では西南戦争で官軍により、「官軍に降参する者はころさず」と書かれた伝単が作成された[1]。
第一次世界大戦に飛行機が登場すると更に大量配布が可能となり、相当の効果があるとされ軍事的に重用な宣伝謀略の手段とされた。
第二次世界大戦では、各国とも数千万枚とも数億枚ともいわれる伝単を印刷し、飛行機を用いて広域に散布している。日本軍も上海入りした1937年頃から効率的に散布できるこの方法を採用し、展開を試みた。中国戦線では中国兵向け、南方戦線のインドシナではイギリス軍兵士、オーストラリア軍兵士向けの伝単を散布した。また、中国兵士向けには、投降を促すために、同志票(日本軍司令部名義)、軍隊歸來證(南京国民政府軍事委員会名義)、和平建國參加證(日本軍司令部および華北軍政委員会の連名)などを撒いていた[2][3]。日本軍の初期の伝単は、活字と写真だけで構成されたが効果は芳しくなく、窮余の策でマンガ入りの伝単を中国戦線向けに制作した。このマンガ入りの伝単はイラストが目をひき、中国の一般民衆に読まれた。以降、日本軍の参謀本部の下で伝単づくりは組織的に行われた。伝単の製作に関わった関わった漫画家には、松下井知夫や那須良輔らがいる[4]。
1938年5月19日の夜間、日本本土に対する初めての空襲が行われた際、中華民国空軍のB-10爆撃機2機は長崎から福岡にかけて、日本による侵略行為を非難する宣伝ビラを投下した。
日本上空の制空権を握ったアメリカ軍は、連日B-25爆撃機等で、空襲の目標となる都市に大量の「空襲予告」の宣伝ビラを散布した[5]。これを拾った者は憲兵や警察へ届けることになっていたが、確実な予告ビラであることからリアリティに富み、日本の民衆心理に効果をあげた。また南方戦線では抵抗を続ける日本兵向けに、「将校は兵士を見捨てて撤退した」など士気を低下させる内容や、投降を促す「投降票」「安全通行証」「生命を助けるビラ」が撒かれている。ビラの文章には誤解や誤記が見つかっている。
他にも、一般市民の目に付きやすく手に取られやすいようにするため紙幣に似せたものもあり、日本で使用されたものは当時流通量が多かった十円紙幣(丙拾圓券)の図柄が用いられた。
ドイツ国防軍には、宣伝ビラの散布を目的とした7.3cm宣伝ロケット発射器が存在し、少数が宣伝部隊に配備された。
イギリス軍はフランス国にポール・エリュアールの「自由」を印刷した紙を散布、フランス国民そしてレジスタンスの士気を鼓舞した。
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