五陵 (慶州)
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五陵(ごりょう、ハングル: 오릉〈オルン〉)は、韓国の慶尚北道慶州市塔洞(ハングル: 탑동〈タプドン〉)にある新羅初期の陵墓群である。1969年8月27日、大韓民国指定史跡第172号に新羅五陵(ハングル: 신라오릉)として指定された後、2011年07月28日、慶州五陵(ハングル: 경주 오릉)に名称が変更された[3]。2000年11月、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録された慶州歴史地域(慶州歴史遺跡地区、ハングル: 경주역사유적지구)の大陵苑地区に位置する[4]。
慶州にある新羅時代のほとんどの墳墓と同じく、各陵墓の被葬者は不詳であるが、5基の陵墓は『三国史記』などをもとに、新羅初代王の赫居世(かくきょせい〈ヒョッコセ〉、在位前57-後4年)と王妃の閼英(あつえい〈アリョル[5]、アルヨン〉)、第2代王の南解(なんかい〈ナムヘ[5]、ナメ〉、在位4-24年)、第3代王の儒理(じゅり〈ユリ〉、在位24-57年)、第5代王の婆娑(ばさ〈パサ〉、在位80-112年)のものといわれ[6]、五陵は朴(ぼく〈パク〉)氏の陵墓とされる[7][8]。
『三国史記』は五陵を虵陵(蛇陵[9])と記しており、また、閼英夫人の陵墓についての記述はない[10]。『三国遺事』によれば、王(赫居世)が昇天してから7日後、遺体が地に散らばり落ち、王妃もまた亡くなった。国の人びとがこれを合葬しようとしたところ、大蛇が現れて遮ったので、それぞれ5体(王の遺体4片と王妃の遺体[9])を葬って5つの陵を造り[7]、これを虵陵(蛇陵[11])と名づけたと記される[10][12]。また、『新増東国輿地勝覧』においては、赫居世陵は五陵と称され、また蛇陵というとあり、五陵自体を赫居世の陵墓と捉えている[13]。
五陵の墳丘は、いずれも封土(盛土[14])のほか装飾要素のない[9]新羅時代初期の陵墓である[15]。第1陵(西側正面)は高さ約10メートルの円形封土墳で、その奥の第2陵は高さ約9メートル、第2陵の傍らにある第3陵は瓢(ひさご〈ヒョウタン〉)形で高さ約7.2メートル、その第2陵より反対側にある第4陵は高さ約3.6m、そして隣の第5陵は高さ約1.8メートルである[1]。第1陵など大型で円形の封土墳は、赫居世より後の時代、4世紀以降の新羅のものとされる[2]。
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