上関町
山口県熊毛郡の町 ウィキペディアから
山口県熊毛郡の町 ウィキペディアから
瀬戸内海に面しており、町域は室津半島の先端と長島、祝島、八島の三島からなる[1]。町の中心部は半島先端部にあたる室津(むろつ)地区、及びその対岸で上関大橋で本土と陸続きになっている長島である[1]。気候は温暖で雨量は少ない[2]。
直近40年で人口が3分の1に落ち込むなど急激な人口減少、高齢化が起きている[3]。
上関町と全国の年齢別人口分布(2005年) | 上関町の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 上関町
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
上関町(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
旧上関村は発足時より3大字がある。室津村は大字がなく、編入時に同村域が大字室津となっている。
かつて瀬戸内海西部には船の荷を検査する番所が設置されていた。現在の山口県に当たる部分においても、都に近いほうから「上関」「中関」「下関」が設置されていた。このうち、「上関」が設置されていたのが当所であったため、この地名がついた。
平安時代から室町中期にかけてはもっぱら「竈戸(かまど)」「竈戸関」と呼ばれた[4]。史料に残される最も古い記録としては、966年(康保3年)の『清胤王書状』に、長島近辺の集落がイカの塩辛を皇室に進納する御厨として記載されている。また、平安後期には風待ち港として記録が残っている。平安末期になると、竈戸は賀茂別雷神社の社領となり、1445年(文安2年)の東大寺への年貢船の記録に初めて「上関」の名が現れ、以後多く使われるようになった。
鎌倉時代には地頭が配属されて関所としての機能が強まり、海上交通の要衝となっていった[4]。室町時代には大内氏が竈戸関を支配したが、海上勢力の活動も活発であり、竈戸関は倭寇の拠点として海外にも認識されていた[4]。江戸時代に上関天満宮に作られた灯籠の銘文によれば、室町時代に能島村上氏の祖である村上義顕が上関城を築城したとあり、戦国時代には村上水軍と、同盟関係にあった毛利氏の重要な海上拠点のひとつとなっていた[5]。江戸時代中期に上関は北前船の風待ち港として全盛期を迎えた[5]。公館である御茶屋、海上保安の御番所、藩営の商業機関である越荷会所など長州藩の出先機関が置かれ、富裕な商家の名残が今日にも見られる。明治時代以降、機帆船や蒸気船の登場によって上関町は、寄港地としての役割を終えた。
1982年、町内に上関原子力発電所を建設する計画が浮上し現在も計画が進行中である。
2022年(令和4年)3月22日には町役場新庁舎での業務が開始された[7]。
1982年に当地に中国電力が原子力発電所を建設する計画が浮上し、1988年には町が中国電力に誘致を申し入れた[8]。長島南西部への四代(しだい)地区に建設が予定されている。元々は2012年6月に工事開始、2018年3月に運転開始の予定だったが、2011年3月の東日本大震災によって計画は停止した。
2010年現在、町内の産業別就労割合は第一次産業19.3%、第二次産業が19.8%、第三次産業が60.7%となっている[10]。
以下、町内の商業関連施設を示す。
2010年時点での総農家数は131。自給的農家は89で販売農家42のうち34が専業[10]。野菜、果物の作物別経営対数は温州みかんの38が最も多くなっている[10]。
以下に農業関連の施設を示す。
2010年の漁業協同組合員数は449人で漁獲高は約3億6800万円。同年、漁獲量が最も高かったのはマアジで140.6t、次いでマダイが66.0t、ハモが50.0tなどとなった[10]。
以下漁業関連の施設。
町内には鉄道路線および空港はない。
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