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イタリアのサッカー選手 ウィキペディアから
ロレンツォ・デ・シルヴェストリ(Lorenzo De Silvestri、1988年5月23日 - )は、イタリア・ローマ出身のサッカー選手。ボローニャFC所属。ポジションはDF(RSB)。
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2013年のデ・シルヴェストリ | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | ロレ[1]、ロロ、ロッロ | |||||
ラテン文字 | Lorenzo De Silvestri | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イタリア | |||||
生年月日 | 1988年5月23日(36歳) | |||||
出身地 | ローマ | |||||
身長 | 185cm | |||||
体重 | 78kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | ボローニャFC | |||||
ポジション | DF (RSB) | |||||
背番号 | 29 | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
ラツィオ | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
2006-2009 | ラツィオ | 47 | (0) | |||
2009-2014 | フィオレンティーナ | 74 | (2) | |||
2012-2014 | → サンプドリア (loan) | 59 | (4) | |||
2014-2016 | サンプドリア | 50 | (5) | |||
2016-2020 | トリノ | 112 | (8) | |||
2020- | ボローニャ | 90 | (8) | |||
代表歴 | ||||||
2003-2004 | イタリア U-16 | 18 | (1) | |||
2003-2005 | イタリア U-17 | 18 | (3) | |||
2005 | イタリア U-18 | 2 | (0) | |||
2005-2007 | イタリア U-19 | 10 | (0) | |||
2006 | イタリア U-20 | 1 | (0) | |||
2007-2010 | イタリア U-21 | 11 | (0) | |||
2008 | イタリア U-23 | 6 | (0) | |||
2010-2016 | イタリア | 6 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2024年6月14日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
2005年7月23日に行われたUEFAインタートトカップの対タンペレ・ユナイテッド戦において、試合時間87分にクリスティアン・マンフレディーニと交代で出場、わずか3分間であったが17歳にしてトップチームでの公式戦デビューを果たす。同大会にはオリンピック・マルセイユ戦にも出場、国内大会へは2006年1月23日に行われたコッパ・イタリアでのASチッタデッラ戦へ出場し、国内リーグ戦には出場はなかったものの、デビューシーズンとなった2005-06シーズンは計3試合に出場した。2006-07シーズン、トップチームに引き上げられクラブとプロ契約する。2006年8月20日にコッパイタリアでの対SSレンデ戦において、プロ契約後の初得点を記録し、2007年4月22日のACFフィオレンティーナ戦でセリエAデビューを果たす。2007-08シーズンにはリーグ戦で24試合の出場を果たすとともに、UEFAチャンピオンズリーグにも6試合に出場。2007年11月19日にはイギリスのサッカー専門誌であるワールドサッカー誌が選ぶ、世界で最も有望な若手選手トップ50にも選出される[2]。2007年12月28日にはイギリスの大衆紙であるザ・サンに、「ヨーロッパにおける20歳以下選手のトップ20」に後のチームメイトとなるステヴァン・ヨヴェティッチらと共に選ばれている[3]。順風満帆なキャリアだと思われていたが、2008-09シーズンはリールOSCから移籍してきたステファン・リヒトシュタイナーにレギュラーを奪われて出場機会が減少、一転し出場機会を求め移籍を志願した。
2009年8月26日に550万ユーロ(約7億円)の移籍金でフィオレンティーナへ移籍[4]。同年9月28日に行われたリヴォルノ戦でフィオレンティーナでの公式戦にデビューする。同シーズンの2010年4月3日にはパルマFC戦においてフィオレンティーナ移籍後、及びセリエAにおいてもキャリア初となる得点を記録した。
2012年6月16日、UCサンプドリアへレンタル移籍した。
各年代の代表を経験し、2007年9月11日に19歳ながら飛び級で招集され、対アルバニア戦でU-21イタリア代表デビューを果たした。ピエルルイジ・カジラギ監督の元、2008年8月の北京オリンピックに2試合出場(イタリアは準々決勝で敗退)した。2009年以降はU-21イタリア代表でキャプテンを務めた。
2010年9月7日、フェロー諸島代表戦でA代表デビューを果たした。
SSラツィオの下部組織出身で、サイドバックやセンターバックのポジションでプレーできるというプレースタイルからも、かつてのキャプテンであるアレッサンドロ・ネスタの後継者であると考えられていた。ラツィオでは将来のバンディエラとして期待されていたが、2009年に同クラブの会長であるクラウディオ・ロティートとの確執[5]から移籍を志願し、ネスタと同じくクラブを去ることになる。各年代でイタリア代表に招集されており、2008年8月の北京オリンピックに2試合出場した。
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