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カナダのサッカー選手・監督 ウィキペディアから
フランク・ウォルター・ヤロップ (Frank Walter Yallop, 1964年4月4日 – )は、イギリス系カナダ人の元カナダ代表のサッカー選手であり、元カナダ代表監督である。
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2011年のヤロップ | ||||||
名前 | ||||||
ラテン文字 | Frank Walter Yallop | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | カナダ | |||||
生年月日 | 1964年4月4日(60歳) | |||||
出身地 | ハートフォードシャー, ワトフォード | |||||
身長 | 180cm | |||||
体重 | 76kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
ユース | ||||||
1982-1983 | イプスウィッチ・タウン | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1983-1996 | イプスウィッチ・タウン | 389 | (9) | |||
1995 | → ブラックプール (loan) | 3 | (0) | |||
1996-1998 | タンパベイ・ミューティニー | 88 | (1) | |||
代表歴 | ||||||
1990-1997 | カナダ | 52 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
2001-2003 | サンノゼ・アースクエイクス | |||||
2004-2006 | カナダ代表 | |||||
2006-2007 | ロサンゼルス・ギャラクシー | |||||
2008-2013 | サンノゼ・アースクエイクス | |||||
2013-2015 | シカゴ・ファイアー | |||||
2016-2017 | フェニックス・ライジングFC | |||||
2020- | ラスベガス・ライツFC | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
イングランドのイプスウィッチ・タウンで、プレミアリーグでの3シーズンを含む13年に渡り活躍した。また、MLSのタンパベイ・ミューティニーでも活躍した。カナダ代表として、52試合の出場経歴を持つ。
監督としては、合わせて13年の間、MLSにおいて、サンノゼ・アースクエイクス、ロサンゼルス・ギャラクシー、シカゴ・ファイアーを指揮し、また、カナダ代表監督を3年務めている。
ワトフォードで生まれ育つ。1974年に、父が兄弟を頼り、カナダのバンクーバーに移住した。サッカーを続けていたところ、14歳の時に、イプスウィッチ・タウンのスカウトの目に留まり、トライアウトを経て、ユースチームに入団した[1]。
19歳であった1983年、イプスウィッチ・タウンとのプロ契約を結んだ。1986年、クラブが1部リーグから降格した時のメンバーであり、6年後に新設されたプレミアリーグへ昇格を果たした時のメンバーでもある(しかし、3年後にクラブは再び降格した)。
イプスウィッチでは、カナダ代表の同胞である、クレイグ・フォレストとともに活躍している。
1993年2月に、そのシーズンでプレミアリーグ優勝をすることになるマンチェスター・ユナイテッドに対して、ホームスタジアムであるポートマン・ロードで、2-1で勝利し、一時的にではあるが、タイトルを視野に入れる位置である4位に食い込んだ。この試合で、1点目のゴールを決めたのが、ヤロップである。その試合の後、チームの調子は下がり、最終順位は16位に終わった。
長年のイングランドでの活躍の後の1996年、北米に戻り、MLSと契約を結んだ。MLS創設にあたっての、ドラフト会議の57人目でタンパベイ・ミューティニーに割り当てられた。毎試合出場した、ミューティニーで3シーズンを過ごした後の1998年の末、引退した。
カナダ代表にとって、唯一のワールドカップ出場であった、1986年のメンバーに入ることは叶わなかったが、1990年5月に開催された北米チャンピオンシップのアメリカ代表戦で26歳でのデビューを果たした。この試合以降、52試合の国際試合に出場した。ワールドカップ予選には27試合出場している[2]。代表での最後の試合は、1997年11月のワールドカップ予選でのコスタリカ代表であった。
2001年、MLSスーパードラフトのわずか2日前にサンノゼ・アースクエイクスの監督に就任した。そのシーズン前に、ジェフ・アグース、ランドン・ドノバン、ドウェイン・デ・ロサリオ、マニー・ラゴス、ラミロ・コラレス、ロニー・エケルンドを獲得し、アシスタントコーチとして、ドミニク・キニアーを招聘した。就任初年度は、MLSカップの優勝に導いた。そして、MLS最優秀監督賞を受賞した。 2003年には、MLSで2位となった。
2003年12月、カナダ代表の監督となることが発表され、翌年1月に就任した[3]。20試合を指揮し、8勝9敗3分の成績を残した。就任期間中の2005年、これまでの功績が認められ、カナダサッカー殿堂入りをした。
2006年6月、ロサンゼルス・ギャラクシーの新監督として契約した[4]。 ギャラクシーは、イングランドのスター選手であるデビッド・ベッカムと契約を結んだが、2007年のプレイオフ予選で敗退した。しかし、監督の座にとどまった。2007年11月、翌シーズンにサンノゼ・アースクエイクスの監督に再就任することが明らかになり[5]、監督の座はオランダ人のルート・フリットに取って代わられた[6]。
2013年6月までの5シーズン半、アースクエイクスを指揮した。2010年と2012年にポストシーズンのプレイオフに進出し、2012年にはMLSサポーターズ・シールドを獲得している[7]。2度のアースクエイクスでの就任期間で126勝の成績を残し、これはクラブ記録である。
2013年10月、シカゴ・ファイアーの監督として着任した[8]。しかし、下位を続けるという、結果の伴わない2シーズンを経た結果、2015年9月に更迭された[9]。
2015年12月、アリゾナ・ユナイテッド(翌年11月に名称をフェニックス・ライジングに変更)の運営と監督を兼務する形で3年契約を結んだ[10][11]。
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