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ドニゴール侯爵(英: Marquess of Donegall)は、アイルランド貴族の侯爵位。
1625年創設のチチェスター子爵と1647年創設のドニゴール伯爵位を前身とし、第5代ドニゴール伯爵アーサー・チチェスターが1791年に叙されたのに始まる。
チチェスター家はイングランド・デヴォンに起源をもつ。ジョン・チチェスター(-1569)は、イングランド議会の庶民院議員やデヴォンのハイシェリフを務めた[2]。その息子であるアーサー(1563-1625)は、1605年から1615年にかけてアイルランド総督(Lord Deputy)を務め、その間の1613年2月23日にアイルランド貴族爵位アントリム県におけるベルフェストのチチェスター男爵(Baron Chichester of Belfast, co. Antrim)に叙せられたが、彼には子供がなかったのでこの爵位は一代で絶えた[3][4]。
しかし彼の弟であるエドワード(1568–1648)もキャリクファーガス総督やアイルランド共同財務官(Joint Commissioner of the Treasury)などアイルランドの役職を務めたため、兄の死からまもない1625年4月1日にアイルランド貴族爵位アントリム県におけるキャリクファーガスのチチェスター子爵(Viscount Chichester, of Carrickfergus in County Antrim)とアントリム県におけるベルファストのチチェスター男爵(Baron Chichester, of Belfast in the County of Antrim)に叙された[5]。
彼の長男である2代子爵アーサーは子爵位襲爵前の1639年にアイルランド議会で庶民院議員を務め、1647年3月30日にはアイルランド貴族ドニゴール伯爵(Earl of Donegall)に叙された(その翌年に父からチチェスター子爵位を継承)。この爵位は父の男系男子に特別継承権を認めていた(兄弟への継承が可能)[6][7][8]。
そのため1675年に初代伯が生存している男子なく死去した際、甥にあたるアーサー(-1678)が2代伯を継承した。彼も襲爵前にアイルランド議会の庶民院議員を務めた[7][9]。
その息子である3代伯アーサー(1666–1706)は、少将まで昇進した陸軍軍人であり、スペイン継承戦争に従軍したが、ムンジュイックで戦死した[10][11]。
その息子である4代伯アーサー(1695–1757)には子供がなかったため、彼の死後、甥のアーサー(1739–1799)が5代伯を継承する[11]。5代伯はグレートブリテン議会で庶民院議員を務めた後、1790年7月3日にグレートブリテン貴族爵位スタッフォード州におけるフィッシャーウィックのフィッシャーウィック男爵(Baron Fisherwick, of Fisherwick in the County of Stafford)に叙された(これにより彼以降の当主は自動的にイギリス議会の貴族院議員となる)。さらに1791年7月4日にはアイルランド貴族爵位のドニゴール侯爵(Marquess of Donegall)とベルフェスト伯爵(Earl of Belfast)に叙せられた。これが現在まで続くドニゴール侯爵位の創始である[12][13]。
その孫で3代侯を継承するジョージ(1797–1883)は、侯爵襲爵前にトーリー党、のちホイッグ党の庶民院議員を務め、1841年8月18日には連合王国貴族爵位アントリム県におけるドニゴール=キャリクファーガスにおけるイニショーウェンのイニショーウェン=キャリクファーガス男爵(Baron Ennishowen and Carrickfergus, of Ennishowen in the County of Donegal and of Carrickfergus in the County of Antrim)に叙せられて貴族院議員に転じている。その後1844年に3代侯を継承し、第一次ジョン・ラッセル内閣下の1848年から1852年にかけて近衛ヨーマン隊長(貴族院与党院内副幹事長)を務めた。しかし死去した際に生存している男子がなかったのでイニショーウェン=キャリクファーガス男爵位は彼一代で廃絶した[13][14]。
4代侯はその弟のエドワード(1799–1889)、5代侯はその息子のジョージ(1822–1904)、6代侯はその息子のエドワード(1903–1975)が継承した[13]
しかし6代侯には子供がなかったので初代侯に遡っての分流である第5代テンプルモア男爵ダーモット・チチェスター(1916–2007)が7代侯位を継承した。これにより連合王国貴族爵位ドニゴール県におけるテンプルモアのテンプルモア男爵(Baron Templemore, of Templemore in the County of Donegall)もドニゴール侯爵位の従属爵位に加わった[13][15]。彼は1981年から1992年にかけてフリーメイソンのアイルランド・グランドロッジで最高指導者グランドマスターを務めた[16]。
現在の当主はその息子である8代侯アーサー(1952-)である[13][17]。
本邸はアイルランド・ウェックスフォード・アーサーズタウンにあるダンブロディ・パーク(Dunbrody Park)である[13]。
現在の当主第8代ドニゴール侯爵アーサー・チチェスターは、以下の爵位を保有している[13][17]。
ジョン・チチェスター ( -1569) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
アーサー・チチェスター (1563-1625) 初代チチェスター男爵 | エドワード・チチェスター (1568–1648) 初代チチェスター子爵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
アーサー・チチェスター (1606-1675) 初代ドニゴール伯爵 第2代チチェスター子爵 | ジョン・チチェスター ( -1647) | ||||||||||||||||||||||||||||||||
アーサー・チチェスター ( -1678) 第2代ドニゴール伯爵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
アーサー・チチェスター (1666–1706) 第3代ドニゴール伯爵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
アーサー・チチェスター (1695–1757) 第4代ドニゴール伯爵 | 4代伯の弟 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
アーサー・チチェスター (1739–1799) 初代ドニゴール侯爵 第5代ドニゴール伯爵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
ジョージ・チチェスター (1769–1844) 第2代ドニゴール侯爵 第6代ドニゴール伯爵 | スペンサー・チチェスター | ||||||||||||||||||||||||||||||||
ジョージ・チチェスター (1797–1883) 第3代ドニゴール侯爵 第7代ドニゴール伯爵 | エドワード・チチェスター (1799–1889) 第4代ドニゴール侯爵 第8代ドニゴール伯爵 | アーサー・チチェスター (1797–1837) 初代テンプルモア男爵 | |||||||||||||||||||||||||||||||
ジョージ・チチェスター (1822–1904) 第5代ドニゴール侯爵 第9代ドニゴール伯爵 | ハリー・チチェスター (1821–1906) 第2代テンプルモア男爵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
エドワード・チチェスター (1903–1975) 第6代ドニゴール侯爵 第10代ドニゴール伯爵 | アーサー・チチェスター (1854–1924) 第3代テンプルモア男爵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
アーサー・チチェスター (1880–1953) 第4代テンプルモア男爵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
ダーモット・チチェスター (1916–2007) 第7代ドニゴール侯爵 第11代ドニゴール伯爵 第5代テンプルモア男爵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
パトリック・チチェスター (1952- ) 第8代ドニゴール侯爵 第12代ドニゴール伯爵 第6代テンプルモア男爵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
ベルファスト伯ジェイムズ・チチェスター (法定推定相続人) (1990- ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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