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ロシア連邦の政治家、外交官。同国第4代外務大臣 ウィキペディアから
セルゲイ・ヴィクトロヴィチ・ラブロフ[注 1](ロシア語: Серге́й Ви́кторович Лавро́в、ラテン文字表記の例:Sergey Viktorovich Lavrov、1950年3月21日 - )は、ロシア連邦の政治家、外交官。2004年3月より外務大臣を務めている。他国の間では、強硬な外交姿勢を取ることで知られている。
セルゲイ・ラブロフ Сергей Лавров | |
---|---|
2021年 撮影 | |
生年月日 | 1950年3月21日(74歳) |
出生地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ |
出身校 | モスクワ国際関係大学 |
前職 |
外交官 外務次官 ロシア連邦国際連合大使 |
所属政党 | 統一ロシア |
配偶者 | マリア・ラブロワ |
子女 | 1人 |
サイン | |
内閣 |
第1次ミハイル・フラトコフ内閣 第2次ミハイル・フラトコフ内閣 ヴィクトル・ズプコフ内閣 第2次ウラジーミル・プーチン内閣 ドミートリー・メドヴェージェフ内閣 ミハイル・ミシュスティン内閣 |
在任期間 | 2004年3月9日 - 現職 |
大統領 |
ウラジーミル・プーチン ドミートリー・メドヴェージェフ ウラジーミル・プーチン |
在任期間 | 1994年7月7日 - 2004年7月12日 |
大統領 |
ボリス・エリツィン ウラジーミル・プーチン |
1950年3月21日にソビエト連邦のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のモスクワに誕生する。1972年にモスクワ国際関係大学を卒業した後、ソビエト連邦外務省に入省する。同年に駐スリランカ大使館に勤務を命ぜられ、1976年に本省に戻って国際経済機関局、1981年にソビエト連邦国際連合代表部に勤務し、一等書記官となる。1988年に国際経済関係局副局長、1990年に国際機関・グローバル問題局長を歴任した。
1991年8月のクーデター後も外務省に籍を置き、1992年4月から1994年1月まで外務次官を務める。同年7月7日に国際連合大使に就任する。
2004年3月9日に安全保障会議書記に転出したイーゴリ・イワノフの後任として外務大臣に就任する。一貫して職業外交官の道を歩んできた点で前任者と共通のキャリアを持つが、そのイワノフがプリマコフの「ユーラシア構想」の後継者としてロシア連邦の国益の主張を強く打ち出す一方で、旧エリツィン・ファミリーとの関係も維持していた政治的な人物であったのに対して、ラブロフは政治色が弱く、ロシアの外交は当時のプーチン大統領の主導が一層強化されると観測された。
2020年1月に発足したミハイル・ミシュスティン内閣でも留任し、5代の内閣に渡って外務大臣を務めている。
2007年6月2日に外務大臣として初めて北方領土を視察した。北方領土問題で日本に対して敵国条項を度々援用し[1][2]、「我々は(日本に)クリル諸島(北方領土)を渡さない。平和条約(締結)を日本側にねだる事もしない」[3][4]などと常々発言している。
2022年9月28日には、第二次世界大戦時の大日本帝国軍をめぐり「日本の軍国主義の犯罪は時効がないものであり、忘れてはならない」と表明し、自らが現在進行形の戦争犯罪の当事者であることを棚に上げた発言ということもあり、大きな批判を浴びた[5]。
2022年2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻の収拾をめぐり、翌3月10日にはウクライナのクレバ外相との間で侵攻後初の閣僚級会談を行ったが成果はなかった。記者会見では、前日のマリウポリにおける病院への爆撃をめぐり「患者はいなかった。病院は長年、ウクライナ軍の極右のネオナチ部隊に占拠されていた」と反論するなど、一貫してロシア側に非は無いとする立場を主張した[9]。
ウクライナの「非ナチ化」を掲げているにもかかわらず、反ユダヤ的発言を繰り返して国際的な非難を浴びている。またユダヤ教はロシアの宗教界のなかでも例外的にウクライナ侵攻を支持しておらず[10]、モスクワの首席ラビであったピンカス・ゴールドシュミットは、2022年3月にロシアを脱出[11]。同年12月末に、ロシア国内のユダヤ人に向けて「戦争によって引き起こされた苦難のため、ユダヤ人がスケープゴートになる」と警告、ロシア脱出を呼びかけている[12]。
2022年5月1日、イタリアのテレビ局Rete4で放送されたインタビューで、ラブロフは「ゼレンスキー大統領がユダヤ人であることは、ウクライナがナチスの要素を持っていることを否定しない」とロシアによるウクライナ侵攻を正当化しつつ、「ヒトラーにもユダヤ人の血が流れていた。最悪の反ユダヤ主義者の中にはユダヤ人がいる」と付け加えた。
5月5日、プーチン大統領はイスラエルのベネット首相と電話会談し、ラブロフの発言について謝罪。ベネット首相は謝罪を受け入れたという[26][27]。ベネット首相の事務所が公表した[28]。
2023年1月18日、ラブロフはオンライン記者会見で「ナポレオンが実質的にすべてのヨーロッパを動員してロシア帝国に対抗したように、ヒトラーがヨーロッパ諸国の大多数を動員して占領し、ソビエト連邦に反対させたように、今や米国は連合を組織した」「ウクライナを巡るロシアに対する西側諸国の政策は、ユダヤ人に対するジェノサイドというナチスの『最終的解決』計画に似ている」と発言した[29][30]。
ロシア語、英語、フランス語、ディベヒ語、シンハラ語を話す[37]。
ラブロフは熱心なスポーツマンである[38]。テレビでサッカー試合を見るのが好きで[39]、モスクワのクラブ、スパルタクの熱烈なファンである[40]。1971年にマリア・ラブロワと結婚し、娘1人と孫2人がいる[41]。娘のアカテリーナ・セルゲイヴナ・ラブロワは父が国連で働いていたときに米国とロンドンで暮らしており、コロンビア大学卒である。2014年までニューヨークに滞在し、ロシア国外での生活が長かったため、ロシア語は流暢でない[42]。彼女はロシアの実業家アレクサンドル・ヴィノクロフと結婚している[43]。
ロシアの外務大臣として、北方領土問題を抱える日本に対して厳しい姿勢を崩すことはないが、外務大臣として対峙した経験のある岸田文雄は自身の著書の中で、ラブロフ個人は親日家の面があるお酒好きの気の良いおじさんであると述べている。来日した際には早朝から築地の河岸に出かけて刺身と日本酒を嗜むほか、自身の誕生日である3月21日にはプライベートで来日することもあったという[44]。
ラブロフは2000年代初頭からスヴェトラーナ・ポリアコワと愛人関係を持っていたとされる[45]。彼女の娘、ポリーナ・コバレワは2016年、21歳の時にロンドンのエリート街ケンジントンのマンションを440万ポンドで購入した[46][47]。彼女はインペリアル・カレッジ・ロンドンで修士号を取得している[46]。2022年3月25日、英国政府は2月末のロシアによるウクライナ侵攻に伴い腐敗したロシアの利益に対する広範な制裁体制の一環として、「汚れた金」の疑いで彼女に制裁を科した[48][49]。
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