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ジョルジュ・ベルナノス(フランス語: Georges Bernanos、1888年2月20日 - 1948年7月5日)は、20世紀フランスの作家、思想家。
ジョルジュ・ベルナノス Georges Bernanos | |
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誕生 |
ルイ=エミール=クレマン=ジョルジュ・ベルナノス(Louis-Émile-Clément-Georges Bernanos) 1888年2月20日 フランス共和国、パリ |
死没 |
1948年7月5日(60歳没) フランス、ヌイイ=シュル=セーヌ |
職業 | 小説家、思想家 |
言語 | フランス語 |
代表作 | 『田舎司祭の日記』 |
主な受賞歴 |
フェミナ賞 アカデミー・フランセーズ小説大賞 |
ウィキポータル 文学 |
パリの室内装飾職人の家庭に生まれる。幼少期から青年期にはパ=ド=カレー県にあるフレッサン(Fressin)という小さな村で主に過ごす。ブールジュ(Bourges)の神学校とエール=シュル=ラ=リス(Aire-sur-la-Lys)のコレージュで学び、1906年にパリ大学へ進む。
エドゥアール・ドリュモンを信奉し[1]、18歳の時からアクション・フランセーズに入団し1908年にはその行動隊であるカムロ・デュ・ロワ(Camelots du roi)に所属し、その首領格として昼は共和派の集会を妨害し警官隊と衝突、夜は果てしない議論に没頭するという生活を送る。活動によりサンテ刑務所に収監され、その間に書評と論文を書き新聞に投稿し始める。1913年から王党派の新聞に本格的に論説を載せるようになる。1914年に第一次世界大戦がはじまると志願して戦地に赴いている。戦後は生活のために保険会社の調査員となり、パリやムーズ県に居を構え、出張先で小説を書きつづるようになる[2]。
1922年から小説を発表し、1926年に『悪魔の陽の下で(Sous le soleil de Satan)』により大きな反響を呼んだ。文筆で生活することを決意し、小説執筆のかたわら、アクション・フランセーズのために政治に関するエッセイ寄稿・講演活動を行う。1936年に出版された小説『田舎司祭の日記(Journal d'un curé de campagne)』は諸外国語にも翻訳されるほど反響を呼び、作家としての地位が確立される[3]。
1936年から37年にかけて書かれた政治的エッセイ『月下の大墓地(Les Grands Cimetières sous la lune)』により、スペイン内戦の際に自分が所属していたフランス右翼やカトリック教会がとった政策や態度を批判したベルナノスは、この後は論争文や政治的エッセイに集中し、ほとんど小説が書けなくなった[4]。
1938年にフランスを去りブラジルに渡り、パリがナチス・ドイツに占領された1940年にバルバセーナ近郊に農場を買って農業と牧畜を始めるかたわら、ド・ゴールの自由フランスの呼びかけに応じて、ブラジルの新聞や抵抗組織を通じてロンドン、ベイルート、アルジェリアなどの地下新聞に抵抗を鼓舞する檄文を書き始め、リオ・デ・ジャネイロの放送で幾度も故国のレジスタンスに呼びかけた[5]。1945年のフランス解放後に帰国。1948年3月から病床につき、7月に死去。
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