フランスの画家、イラストレーター、版画家 (1829-1906) ウィキペディアから
ジュール・フェラ (仏:Jules Férat、1829年11月28日 - 1906年6月6日) はフランスの画家、製図工、版画家、イラストレーター。
科学イラストレーターとして機械や構築物を細密に描写し、一般社会への科学の普及に努めた[1]。新聞や定期刊行物にも膨大な数のイラストを描き、挿絵画家としてもジュール・ヴェルヌやエミール・ゾラなどの小説を手がけた。署名には J.FÉRAT. や、J.F. などを用いた。
ジュール・フェラ(本名:Jules-Descartes Férat)は1829年11月28日フランス北部のソンム県アム(Ham) に生まれた。
レオン・コニエから絵画の技法を学び[2]、1850年から1880年代の終わりにかけて、フランスの作家で医学者・自然科学者であるルイ・フィギエの『産業の驚異』[3][4]をはじめとする通俗科学書に、当時のフランスにおける最先端の科学技術や機器、最新の設備を持つ工場や、そこで働く労働者たちを描き、一般社会への科学の普及に努めた。
1860年からはパリの出版社Michel Lévy frèresから発刊された、フランスの工学者で医師・歌手のジュール・トゥルガンの編纂による「フランスの大工場」(Les Grandes Us ines française)シリーズの図版を描き[1]、1866年からはルイ・アシェットの出版社アシェット・リーブルで、科学分野の叢書「ラ・ビブリオテーク・デ・メルヴェイユ」の執筆に携わり、サイエンスライターのウィルフレッド・ド・フォンヴィエルの『石油』や、フランスのエンジニアでスイスのゴッタルド鉄道トンネルの建設にも携わったマキシム・エレーヌの『火薬と新しい爆発物』、物理学者のレオン・ソンネルの「海底」といった著書のビネットを手がけ、同じ出版社から20世紀初頭にかけて出版された女性教育家のマリー・パプ=カルパンティエの初等教科書 Enseignement par les yeux (目を通じて教える)というシリーズの図版を描いた。1867年にはフランスの地質学者で鉱山技師、探検家のルイ・シモナンによる、石炭とル・クルーゾの炭鉱の解説書「地下生活 - または鉱山と坑夫」[注 1]の図版を描き、1873年からはガストン・ティサンディエが創刊した科学雑誌「ラ・ナテュール」のイラストを担当した。
その一方で、フランスの2人の図書館司書が著したユニークな本にもビネットを描いた。まず1872年に出されたマザラン図書館とアーセナル図書館(現在のBnFの一部門)の司書だったロレドン・ラルシェによる俗語辞典、"Les Excentricités du langage"、さらにフランス革命100周年となる1889年に出された、サン=ジェヌヴィエーヴ図書館の司書で歴史学者のオーギュスタン・シャラメルが編纂した『100周年記念アルバム』(Album du Centenaire) の制作に関わり、エミール・バヤールなどの画家・版画家たちと歴代の著名人たちの肖像画を描いた[注 2]。彼は、ウージェーヌ・シュー、トーマス・メイン・リード(en)、エドガー・アラン・ポー、エミール・ゾラ、ジュール・サンドゥ(fr)、ルイ・アンリ・ブセナール(fr)、ヴィクトル・ユーゴーなどの文学作品を好み、1878年に創刊したフィクションと現実のニュースを取り交ぜた新聞「ジュルナル・デ・ヴォヤージュ」にもイラストを提供した。
彼はジャーナリストとしても活動し、フランスの新聞「イリュストラシオン」や「ユニヴェール・イリュストレ」、「ル・モンド・イリュストレ」、ベルギーの雑誌「イリュストラシオン・ユーロピエンヌ」などにフランスをはじめとする構造物や構築物、産業や政治、イベント、事件や災害についてのイラストを描いた。その数は数千点に上り、ペール・ラシェーズ墓地やカタコンブ・ド・パリ、普仏戦争、露土戦争、パリ万国博覧会 (1878年)を題材とした作品も残している。また、画家としても1857年から1871年までサロン・ド・パリに出展した[7]。
小説の挿絵でも活躍し、1871年には当時ジュール・ヴェルヌの作品を出版していたピエール=ジュール・エッツェルが、フェラにヴェルヌの小説『洋上都市』の挿絵を依頼している。ヴェルヌもまたフィギエの著書に魅了されていた一人であった。以後、彼は当時ヴェルヌの作品を手がけていたアルフォンス・ド・ヌヴィルや、エドゥアール・リウー、ジョルジュ・ルーなどとともに、ヴェルヌの9つの小説に延べ530点の挿絵を描いた。また、ゾラの『ジェルミナール』(1886年)、ユーゴーの『九十三年』(1876年) や『見聞録』(1887年) 、外国文学ではシャルル・ボードレールが翻訳した、エドガー・アラン・ポオの作品集『新・並外れた物語』(Nouvelles histoires extraordinaires、1857年)や、ジュリエット・ド・ロシェが翻訳した、カール・マイの『鮫の王』(Le Roi des requins、1887年)などに挿絵を提供し、コンスタン・アメロの『小さなパリジャンのフランス旅行』[注 4]や、マレス・ド・ボーリューの『12歳のロビンソン』といったジュブナイルの挿絵も担当した。
1906年6月6日、彼はパリの現在10区にあるフェルナン・ヴィダル病院(:fr)の前身であるメゾン・デュボアで亡くなり、モンパルナス墓地の17区に埋葬された。
彼の作品は、現在カルナヴァレ博物館などに収蔵されている。
西洋の同時代の多くの画家と同じく、彼のドローイングは専門の職人によって木口木版やリトグラフとして出版された。以下に彫版師・製版師の一部を示す。なお、彼が自分自身で彫版を行なった作品もある。
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