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イギリスの政治家、貴族 ウィキペディアから
初代パスフィールド男爵シドニー・ウェッブ(Sidney James Webb, 1st Baron Passfield、1859年7月13日 - 1947年10月13日)は、イギリスの政治家、貴族(男爵)。のちの労働党へと繋がるフェビアン協会の中心人物で、イギリスの政治思想風土のもとで漸進的な社会改革を主張した。
1859年、ロンドンで生まれた。仕事のかたわら、バークベック・カレッジ、キングス・カレッジ・ロンドンで学び、植民地省の高級官僚になる。フェビアン協会の創設期より中心的役割を果たし、妻ビアトリス・ウェッブ(パスフィールド男爵夫人)やバーナード・ショーらとともに、漸進的な社会改革を進めることを主張した。1895年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)を創設し、自身は行政学の教授をつとめた。代表的な社会改革理論として、ナショナル・ミニマム論(『産業民主制論』〈1897年〉)がある。それは、最低賃金、労働時間規制、衛生・安全、義務教育などの労働者への最低労働・生活条件の国家規制は、国民経済発展にプラスになるというものであった。ナショナルミニマム概念は、後のピグーやベヴァリッジにらよっても形を変えて引き継がれた。
フェビアン協会は、労働組合とは一定の距離を保ちつつ、労働代表委員会を経て労働党へと結実し、ウェッブは労働党員として党内の要職を歴任した。1922年、下院議員。1924年、初めての労働党内閣(自由党との連立)が成立した際に商務大臣。1929年、初代パスフィールド男爵に叙され、貴族院議員に列する。 1929年、ラムゼイ・マクドナルドによる第2次労働党内閣で植民地相を務める[1]。1929年以降の大恐慌の惨劇を前に、晩年にはロシア社会主義に傾倒していった。1947年に死去。子供はおらず、パスフィールド男爵家は一代で廃絶した。
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