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競走馬 ウィキペディアから
クサール (Ksar) は、1920年ごろに活躍したフランスの競走馬である。凱旋門賞(1921,1922年)、ジョッケクルブ賞(1921年)などに優勝した。1931年フランス首位種牡馬。馬名はクサールに由来。
本馬はオムニウムやキジルクーガンを生産したエヴレモン・ド・サンタラリの生産馬である。父ブリュルール、母キジルクーガンは共にパリ大賞の勝ち馬で、特にキジルクーガンはセプターを破ったことで知られている。両馬は共にオムニウムを近い祖先に持っており、クサールはオムニウムの2×3の強いインブリードを持っていた。
1歳時、テディを生産したエドモン・ブランによって、15万1000フランという非常識なほどの高額で競り落とされた。クサールをそれまでのフランスレコードを200%上回る額で競り落としたエドモン・ブランは、なぜこの馬にこれほどの額を支払ったのか尋ねられた際、「たしかに彼は不格好だ。だがまさにオムニウムのように不格好なのだ。それに歩様は実に美しいではないか」と評したと伝えられている。しかし彼はクサールの活躍を見ることなく翌年死去してしまっており、最終的にその妻の元で走ることになった。
ブリュルール産駒としては例外的に2歳時から出走し、3歳時にはジョッケクルブ賞や凱旋門賞(第2回)などの大レースを制した。ただし、両親が制したパリ大賞は、圧倒的な人気を集めながらイギリスからの遠征馬レモノラの着外に惨敗している。
4歳になっても好成績は続き、凱旋門賞を史上初めて連覇[注 1]。また、カドラン賞にも勝った。クサールは第一次世界大戦後のフランス最強馬と評価されることもある。
1932年から1935年までブラン夫人のジャルディイ牧場で供用された。1931年にはトウルビヨンが活躍し、フランス首位種牡馬を獲得した。1935年にアメリカ合衆国へ売却され、ヴァージニア州のモンタナホールスタッド (Montana Hall Stud) に移動した。1937年の夏に内臓出血のため死亡、19歳。
※当時はグループ制未導入
なし
父方の直系子孫はトウルビヨンの子孫が主である。フランスや日本で一時期繁栄し、現在でもアイルランドを中心に少数が活躍している。この他にフォモールの子孫が障害競走分野で活躍した。馬術分野で成功した子孫もいる。
Ksarの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | ヘロド系 |
[§ 2] | ||
父 Brûleur 鹿毛 1910 |
父の父 Chouberski鹿毛 1902 |
Gardefeu 鹿毛 1895 |
Cambyse | |
Bougie | ||||
Campanule 鹿毛 1891 |
The Bard | |||
Santa Lucia | ||||
父の母 Basse Terre栗毛 1899 |
Omnium II 栗毛 1892 |
Upas | ||
Bluette | ||||
Bijou 黒鹿毛 1890 |
St. Gatien | |||
Thora | ||||
母 Kizil Kourgan 栗毛 1899 |
Omnium II 栗毛 1892 |
Upas 栗毛 1833 |
Dollar | |
Rosemary | ||||
Bluette 栗毛 1886 |
Wellingtonia | |||
Blue Serge | ||||
母の母 Kasbah鹿毛 1892 |
Vigilant 鹿毛 1879 |
Vermout | ||
Virgule | ||||
Katia 栗毛 1883 |
Guy Dayrell | |||
Keapsake | ||||
母系(F-No.) | 3号族(FN:3-n) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Omnium II:M2×S3 | [§ 4] | ||
出典 |
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