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タイ首相 ウィキペディアから
ククリット・プラモート(タイ:หม่อมราชวงศ์คึกฤทธิ์ ปราโมช、英:Kukrit Pramoj、1911年4月20日[1] - 1995年10月9日)はタイの政治家、作家である。1975年から1976年にかけて首相を務めた。1985年には国家芸術家に指定された。
モムラーチャウォン・ククリット・プラモートは、1911年4月20日にシンブリー県インブリー郡タンボン・バーンナー付近のチャオプラヤー川の船上で生まれた。カムロップ親王(ラーマ2世の孫、警察局長官)とブンナーク家出身のモム・デンとの間の第六子である(抗日運動自由タイ運動の指導者であり、第二次世界大戦後首相を務めた兄セーニー・プラーモートは第四子)。ククリットという名は「元気で力あるもの」を意味し、大きな声で泣く元気な赤子であったことから、ラーマ5世の正妻であったシーパッチャリン王妃が名づけた。
1936年、モムラーチャウォンイン・パックプリン・トーンヤイと結婚し、モムルワン・ローンリット・プラモートとモムルワンイン・ウィスミットター・プラモートの二子をもうけた。ククリットはサートーンタイのソイ・スワンプルーの横路地であるソイ・ピニットにあった邸宅に好んで住んだ。この邸宅は今なお「ソイ・スワンプルー邸」として知られている。
ククリットはさまざまな分野で多くの業績を残した品格ある人物として知られており、特に文学、演劇、さらに政治の分野の業績は有名である[1][2]。
政治の分野では、1945年に進歩党を結成した。1950年にはタイ語日刊新聞『サヤーム・ラット』を創刊[2]。1974年には18名しか党員のいない社会行動党を結成し党首となり、直ちに国務相に就任[1][2]。1975年にはタイ王国首相に就任した[1][2]。大蔵大臣にはブンチュー・ロージャナサティアン(บุญชู โรจนเสถียร、黃聞波)が就任し、地方への助成分配政策(グーンパン、เงินผัน)を行った。政治活動中は雄弁家として知られ、タイの言葉遊び(カムプアン)を用いて自身について「ククリットは深慮なのです。」(คึกฤทธิ์ ก็คือ คิดลึก)などと語ったことがあった。
文学の分野では、タイ王国で名著として名高い『王朝四代記』などを著し、さまざまな賞を受賞している。またククリットは映画俳優でもあり、タイの首相に就任する前の1963年にマーロン・ブランド出演の映画 『The Ugly American (1963)』(醜いアメリカ人)で、東南アジア地域の想像上の国家「サーカン国」の首相として出演している。その後、1983年にも、スラシー・パータム監督、ソラポン・チャートリー主演 映画 「Phu Thaen Nok Sapha(1983)」(ผู้แทนนอกสภา:「国会の外の代議士」(仮訳))に出演している。
ククリットは1995年10月5日に84歳で亡くなった。2007年にタイ王国文化省はユネスコの世界にとって重要個人としてククリットの名を上げ登録を申請している。
ワッタナーウィタヤーライ校(後宮)で修学後、スワングラープウィタヤーライ校に進学。その後イギリスのトレント・カレッジに留学。さらにオックスフォード大学クィーンズ・カレッジに入学し、哲学、政治、経済の学士号(優等学位)を取得。(さらに3年後、同大学から優等学位を所有する学生への慣習から修士号を授与される。)
チーク材を用いたアユタヤ様式の伝統的な造りの邸宅である[3]。伝統文化の保存に強い関心があったククリットのコレクションが展示され、土日祝日の午前10時―午後5時の間、一般公開されている。バンコクのサートーンタイ、ソイ・プラピニット19にある。
日本国内では、ククリットがジャーナリスト時代に『サヤーム・ラット』紙で発表した「十二月八日」と題する署名記事の内容だとして、「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。」から始まる長文が流布している。書籍・雑誌・インターネット上の記事で多数引用されており、再引用と孫引きの繰り返しによって様々なバージョンが流布している。
しかし、この説の出典は明示されておらず、『サヤーム・ラット』紙の記事にも上記の文章は見つかっていない[4]。百田尚樹『日本国紀』は同記事を『サヤーム・ラット』紙昭和30年(1955年)12月8日の掲載記事と紹介するが、実際の同紙当日の紙面にそのような記事は存在しない[5]。同記事は名越二荒之助によって創作されて広まったものと指摘されている[6]。
名越二荒之助『大東亜戦争を見直そう』(原書房、1968年)以前の文献では、『青年学徒の祈り・紀元節復活のために』(日本青年問題研究会、1960年)所収の難波江通泰論文「近代日本歴史と国際関係――紀元節を考えるに当って」の中に「タイ国の記者ククリット・プラモード氏の言」として同じ趣旨の文章が引用されている。しかし、「近代日本歴史と国際関係」にはこの文書の典拠は記されていない[7]。
代表作『王朝四代記』『赤い竹』『多くの生涯』が「ククリット・プラモート三部作」「タイ現代文学の傑作」と高く評価される[1][2]。
和訳
英訳
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