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イギリスの日本人学生(いぎりすのにほんじんがくせい)とは、19世紀に長州藩や薩摩藩、江戸幕府によって主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジに派遣された、日本人留学生のことを指す。明治維新以降は、主にケンブリッジ大学やオックスフォード大学において学ぶのが主流となり、同時代の末期まで続いた。留学生を送る理由としては、いち早く日本を近代化し、列強に肩を並べることにあった。
1863年(文久3年)に派遣され、ユニヴァーシティ・カレッジのアレキサンダー・ウィリアムソン教授の監督のもと学んだ。
1865年(慶応元年)に15名の薩摩学生のほか、土佐藩と肥前藩から1名ずつ派遣された。彼らも長州五傑と同様、ユニヴァーシティ・カレッジで学んだ。
など。
幕臣の子弟より留学希望者を募り、開成所で行った試験の結果12名が合格し、加えて川路太郎と中村正直の2名が取締に任ぜられ計14名が派遣された[1][2]。1866年(慶応2年)10月に横浜港を出発し、12月にロンドンに到着した。留学生の引率・監督・世話役を担ったイギリス海軍付の牧師兼海軍教師W・V・ロイドの意向と学生らの希望する学習体制が一致せずしばしば対立した。雇い入れた教師にも恵まれず、ようやく1867年(慶応3年)の末に学生12名はユニヴァーシティ・カレッジに入学するも、幕府の瓦解により短期間で帰国(1868年(明治元年)8月)を余儀なくされた。また川路らは、1867年のパリ万国博覧会に将軍慶喜の名代として派遣された徳川昭武らの対応にあたったほか、万博後の一行の訪英の対応にもあたった[3]。
など。
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