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太祖の4番目の正妃。ウラナラ氏出身。 ウィキペディアから
アバハイ(満洲語:ᠠᠪᠠᡥᠠᡳ、転写:abahai、漢字表記:阿巴亥、1590年-1626年10月1日)は、後金の太祖ヌルハチ(1559年 - 1626年)の配偶者。女真(満洲人)の正白旗(八旗の一つ)に属するウラナラ氏(Ula nara hara)出身。孝烈武皇后(こうれつぶこうごう)と諡された。
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明の万暦29年(1601年)の11月か12月に、ウラナラ氏出身のアバハイは叔父ブジャンタイのはからいにより、後金の太祖ヌルハチと結婚し、複数の妻のうちの一人となった[注釈 1]。満11歳であった。ヌルハチより31歳年下であった。1603年10月31日の孝慈高皇后[注釈 2]の死後、ウラナラ夫人アバハイはヌルハチの第一夫人に昇格した[注釈 3]。彼女は1605年8月28日にヌルハチの12番目の息子アジゲを、1612年11月17日に14番目の息子ドルゴンを、そして1614年4月2日に15番目の息子ドドを出産した。
後金の天命5年(1620年)、礼親王ダイシャン[注釈 4]との微妙な関係をヌルハチに伝える者があり、それを機に収賄の嫌疑も受け、それ以降ヌルハチはアバハイを「裏切り者で偽善的である」と非難して第一夫人の地位を廃し、共に暮らすこともなくなったという。ただし、彼女の子アジゲ、ドルゴン、ドドはのちにヌルハチ直属の両黄旗を相続している[1]。アバハイがヌルハチの愛妻であったことは、このことからも疑いえないとする見方がある[1]。
天命11年8月11日(1626年9月30日)、夫ヌルハチが没し、翌8月12日(1626年10月1日)、アバハイはヌルハチに殉死した[注釈 5]。当時の記録には、ホンタイジを含む義理の息子たちによって殉死を余儀なくされたと記している[注釈 6]。これについて、次のように伝えている[1]。
(大妃は)容姿秀麗なるも心根悪しく、ハンをつねに嘆き怨ませていた。いかに奸智に長け口先が巧みであろうと、ハンの英明に遮られて過ごした。太祖ゲンギェン=ハンはその妃の様子を知って、後に残せば国政に乱れとなりはしまいかと、ハンはその身が崩じた後、必ず殉じさせよと予め書を作り、ベイレらに与えておいた。衆ベイレは太祖ゲンギェン=ハンの遺書の言をもって大妃に「ハンなる父は、妃なる母は必ず殉じよと言っていた」と人を遣るので、大妃はその言に「我は従わぬ」と言い抜けても、衆ベイレの言うには「母よ、汝が辞退したとて、我らは(この世に)留めはしない」ときっぱり言うので、妃は朝服を着て金・東珠で身を飾り、衆ベイレに向かって泣きつつ言うには「我はハンなる夫に十二歳にして連れ添い、珍奇な衣を着、種々の糧を食べ、二十六年過ごして離れ難いので殉ずる。我が二人の幼子ドルゴン、ドドをよろしく慈しみ養え」と言った後、衆ベイレは皆ともども泣きつつ答えるには「我らが二人の幼弟を慈しまぬなら、ハンなる父を忘れたということであるぞ。慈しまない道理があろうか」と言った後、それから大妃は十二日に、辛亥の日の辰の刻に殉じた。三十七歳であった[1]。
この記述について東洋史学者増井寛也は、諸文献を検討するとアバハイを取り囲む客観的状況は、彼女は殉死を志願する要件をむしろ満たしており、そこに際だった違和感はなく、逆にもし、殉死が強要されたものであったなら、彼女は婢妾も同然の屈辱的で非礼な扱いを甘んじて受けたことになり、不自然であると指摘している[1][注釈 7]。
清の順治帝治世の初期、アバハイの息子ドルゴンは未成年の皇帝の摂政を務めた。順治7年(1650年)、ウラナラ夫人は「孝烈武皇后」に昇格したが、ドルゴン死後の順治10年(1653年)、順治帝はウラナラ夫人アバハイの死後の称号を取り消した。
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