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手で扇いで風を起こす道具の一種 ウィキペディアから
うちわ(団扇)とは、手で扇いで風を起こす道具の一種。似たものとして扇子がある。折りたたんで持ち運べるものを「扇」や「扇子」、和紙や布などを丸く貼った折りたためないものを「団扇」と呼ぶことが多い[2]。
一般的には扇部と手でそれを支持するための柄を備え、柄の形状は、丸柄(竹の丸い形状をそのまま使ったもの)、差柄(扇部(骨)と柄を別々に作り、後から扇部に柄を差し込んだもの)、平柄(竹を6~9分の幅に割って先端部分を削ったもの)などがある[3]。ただし柄がなく扇部の端のくりぬいた部分に指を入れて用いる穴開きうちわもあり、厚紙のみで作られた簡素なペーパーファンにはしばしばそういった形状であり[4]、販促品として用いられることも多い。
絵柄や文様にも様々な種類がある。
古来、うちわは木製品、鳥毛や獣毛、蒲葵(びろう)や芭蕉の葉に始まり、もっと大型で、「あおぐ」ためより「はらう」「かざす」ためのもので、威儀[5]、儀式、縁起[5]、祈願、軍配[5]、行司[5]、信仰、占いなどに使われた。 その後、形態や材質は時代によって変化してゆき、室町時代末、軽くて扇部がへたらない構造として、竹骨と紙を素材とする現在の形となる。 江戸時代に入ると一般大衆に普及し、町民文化が花開くとともに涼(りょう)や炊事、装いや流行、蛍や虫追いなど、様々な場面で利用された[5][6][7]。
明治時代には、その美しい図柄の団扇は外国人に高い評価を得て盛んに外国に輸出された儀[5]。商家の配布用としての需要も急増し、裏面に名入れ、表面には商品や様々なメッセージが織り込まれ、広告媒体としての意義を備えていった儀[5]。印刷業界では企業・団体が販促、宣伝などを目的に配布される夏の団扇と冬のカレンダーは重要な季節商品であった。
昭和40年代以降、扇風機やクーラー、ガスや電気のコンロの普及など、生活環境の著しい変化により実用面は縮小するものの、夏場を中心に涼をとる生活の道具、花火大会など日本の風情を楽しむおしゃれの小道具、炊事の道具、広告の媒体としての利用は今も盛んである。
大型の翳(は)に比して実用的な小型の翳と区別され、それを用いて害(ハエや蚊などの虫)を打ち払うことから「打つ翳」→「うちわ」となったのが一般的な説である[5]。病魔などを撃ち払う魔除けの意味もあったとされる[5]。
「扇」はもともと、観音開きの戸が羽のように開閉する様を表していて、それによって風が起こることに由来しているとする説がある[要出典]。「団扇」は、中国由来の熟語である。「団」は「まるい」を意味する(「あつまる」の意味は派生である[要出典])。「だんせん」と音読みもする[8]。「団扇」を「うちわ」と読むのは熟字訓である[9]。
団扇の歴史は、その意匠(形状、材質、構造)ならびに機能・用途、意味・意義、背景・時代の特徴からみて、主に5つの時代に分類できる。
最も古いうちわ(団扇)の例は、古代中国の記録[どれ?]や古代エジプトの壁画[12]にみることができる。日本でその具体的な形状を知る最も早い例は、弥生、古墳時代より出土する木製品である。
中世(飛鳥、奈良、平安、鎌倉時代)[疑問点]、公家、役人、僧侶の間では威儀具として発展し、伴(とも)にもたせる大型のものや文様を付した豪華なものが作られ、素材も絹、蒲葵(びろう)や芭蕉などの植物繊維、雉(きじ)や鵲(かさらぎ)の鳥の羽など多様に用いられる。庶民の間では軽くて便利な網代網の方扇(ほうせん:四角形の団扇)が使われた。古代以来、構造は中心に柄と一体である「棒」を通し、扇部分の縁を「枠」によって素材を固定する例が多数を占める。
その後、形態や材質は時代によって変化してゆき、軽くて扇部がへたらない構造として、竹または蒲葵(びろう)や芭蕉の骨と紙を素材とする「現在のかたち」の原型となったのは室町時代末である。また、戦国時代以降、素材に漆塗りの網代団扇や漆塗りの皮、あるいは板や薄い鉄板などを用い堅固につくられた軍配団扇(略称:軍配)が武家の戦いの中で使用された[13]。武将の戦における軍の指揮、一軍の象徴、家紋を示し、矢石を防ぐ武具としての機能も果たした。また、旗指物に大型団扇が使われ、そこには家紋などが示された[14]。
江戸時代にはいると、庶民へも広く普及し、涼や炊事、装いや流行、蛍や虫追いなど、日常生活道具として多様な場面で利用されてゆく。量産のため、全国各地には団扇産地が形成される。四国では、19世紀初め、金毘羅参りの人びとが丸亀港から上陸するにしたがい、丸亀の団扇は全国に広まっていく。安政年間(1860年頃)には、年間80万本作られていたという。明治以降、分業化して工場で作られるようになり、大正末年になると、骨の年産約6,000万本、製造に従事する者はは約2,000人に達し[15]世界各国への輸出も伸びていった[16]。
また木版技術の向上が多色摺を可能として大量の団扇絵生産を可能にし、一般大衆の手にその美がゆき届くようになった。図柄もその好みが反映されるようになり、文芸(俳諧、和歌、漢詩)や浮世絵も扇部にあらわれ、団扇を通じてその表現は創意工夫がなされる。このとき、従来の“威儀を示す”から、「あおぐ」「はらう」そして「たのしむ」道具としての意味が大きくなる。
また、江戸時代には複数の団扇を羽根として手回しで風を送るという、手動式の扇風機としての使い方も行われるようになった[17]。江戸時代後期の浮世絵にもこの手動式扇風機が登場する[18]。
明治時代の新機軸は広告団扇である。大需要者はアメリカにあり、粗製廉価な団扇を鉄道会社などが客に配った[19]。国内でも商家や寺社の配布用としての需要が増し、裏面に名入れ、表面には商品や様々なメッセージが織り込まれ、その実用面に広告媒体としての意義が備わった。美術的な価値に重きをおいた団扇もアメリカに盛んに輸出された[20]。扇部にほどこす絵入れや揮毫(きごう)、煎茶の団扇など趣向を凝らす側面は、近代でも好まれ日本人の生活や技芸を彩っている。
しかし、昭和10年代には戦意高揚など国策に利用され[21]、戦時中は生産が激減、軍需品として僅かな生産が続いた。
戦後、昭和20年代後半から日本経済の回復とともに団扇の生産も復調していく。昭和30 - 40年代は当時人気の俳優・女優の顔や姿が扇部を飾り、人々はそのアイドル(偶像)を近い距離感で手にとって親しんだ。
1966年には四国団扇株式会社(本社:香川県丸亀市)が手作りの竹うちわを遥かに上回る生産性と低コストを実現したポリプロピレン(プラスチック)を使用したプラスチックうちわ『ニューファン』を開発し[22][23]、広告媒体として急速に普及していった。『ニューファン』が誕生して半世紀を越えた今もなお、駅前やイベント会場などで配布される代表的な広告媒体の一つとして定着し、スポーツ観戦やアイドルコンサートの応援グッズとしても欠かせないアイテムとなった[24]。
「扇」という漢字は元来は団扇(うちわ)のことを指した(「扇子」も同様)。
その後、ほぼ同じ用途で折り畳める扇子(せんす、あふぎ、おうぎ)が生まれ(日本で発明されたとの説もある)、日本では「扇」の字が当てられるようになり現在に至っている。以降、日本では「扇」(あふぎ、おうぎ)はこの扇子のみを指すようになった。両者は外見の違いで区別できる。
折りたためるものを「扇子」、折りたためないものを「団扇」とする。中世以降、団扇は僧侶、文人、隠遁者に、扇子は公家・貴族を中心に使われた。団扇は民衆へ広がり、身分の別なく、夏の季節に気随に使われる品となった。対して、扇(扇子)は儀礼の具として用いられる場合もあり、格式ばった印象もある。
団扇の用途と機能は、生活用具としての物理的な用途・機能とそれ以外の役割により、以下のように分類できる。
その他
ひと昔前までは、団扇敷きや団扇立てをどの家でも座敷や客間に備え、団扇をいれて夏場の来客の供とする大切なもてなしの道具の一つであった。素材は涼味を感じる竹が多い。団扇敷きは団扇の扇部を置く盆のような籠や箱で、竹編みで、柄の部分が外に出るように作られている場合が多い。
丸亀団扇の手工業時代の製造工程について述べる[45]。出典には作業状況の写真が添付されている。
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