白金台(日语:白金台/しろかねだい Shirokanedai */?)是東京都港區的地名,為住居表示實施地區,分為白金台一丁目至白金台五丁目。當地人口10,482人(2013年7月1日[1])。郵遞區號108-0071。
位於東京都港區西南端,西接澀谷區惠比壽、品川區上大崎、東五反田,東臨高輪,北鄰白金。目黑通與外苑西通、櫻田通(國道1號)沿線商店、公寓林立,其他大部分地區為寧靜的住宅區。具歷史性的明治學院位於町內。
過去為普通的平民住宅區,泡沫經濟時期後半起,餐廳、咖啡廳、時裝店等如雨後春筍般在町內開業,高級公寓也一棟棟建造完成,近年高所得居民也陸續遷入。部分女性居民被大眾媒體稱之為「白金貴婦」(シロガネーゼ Shiroganēze)」[2][3]。因此,這裡被視為是高級住宅區。
町名中的白金台正確念法為「しろかねだい Shirokanedai」,而非「しろがねだい Shiroganedai」[4]。一般來說兩種念法都有,然而
- 最早町名源自白金長者(應永年間開墾白金地區的柳下上總介),白金長者指的是擁有大量的銀(日语:しろかね Shirokane)而非指現在的白金,
- 另一個證據是『小田原衆所領役帳』中也記載了「白銀」。
因此,1969年(昭和44年)1月1日白金地區實施住居表示,港區決定使用「しろかねだい」作為正式町名。
- 應永年間 南朝國司柳下上總介在本地開墾,白金村開村。
- 1651年(慶安4年) 現在的目黑通沿線脫離白金村成立白金台町一丁目〜十一丁目。
- 1713年(正德3年) 町奉行支配。
- 1867年(慶應3年) 向外國人供應牛肉的中川嘉兵衛在江戶荏原郡今里村(之後的芝白金今里町、現在的白金台二丁目)設立屠牛場(之後的「東京共有屠牛場」),為日本最早的近代屠宰場[5]。
- 1868年(明治元年) 東京府成立,白金台町屬東京府。
- 1869年(明治2年) 白金台町六丁目與白金瑞聖寺門前合併。
- 1873年(明治5年) 白金台町一丁目〜五丁目與瑞聖寺敷地合併成立新的白金台町一丁目,白金台町六丁目〜十一丁目與白金御料地合併成立新的白金台町二丁目。
- 1878年(明治11年) 芝區成立,屬東京府芝區白金台町。
- 1889年(明治22年)5月1日 東京市成立,屬東京市芝區白金台町。
- 1912年(明治45年) 神田橋至白金火薬庫前(現 上大崎)的東京市電通車。
- 1947年(昭和22年) 芝區與赤坂區、麻布區合併成立港區。町名冠上「芝」,更名為港區芝白金台町。
- 1967年(昭和42年)12月10日 白金台的都電廢止(目黑站前〜白金台町〜永代橋)。
- 1969年(昭和44年)1月1日 住居表示實施。芝白金台町與周辺的芝白金三光町、芝白金今里町、芝白金猿町、芝二本榎西町合併成立現在的白金台(しろかねだい)。
- 2000年(平成12年)9月26日 地下鐵南北線、三田線白金台站開業。
更多信息 實施後, 實施年月日 ...
實施後
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實施年月日
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實施前(各町名部分區域)
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白金台一丁目
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1969年1月1日
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芝白金台町一丁目、芝白金今里町
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白金台二丁目
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芝白金今里町、芝白金猿町、芝二本榎西町
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白金台三丁目
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芝白金台町一丁目、芝白金台町二丁目、芝白金今里町
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白金台四丁目
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芝白金台町一丁目、芝白金台町二丁目、芝白金三光町
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白金台五丁目
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芝白金台町二丁目、芝白金三光町
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关闭
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実際にはマスメディアが言うところの「シロガネーゼ」に当たるのはほんの一部の住民であった。しかしそのようにマスコミが仕掛け大々的に取り上げたこともあり、外苑西通りは別名プラチナ通りと呼ばれるようになり、通り沿いを中心にレストランやカフェ、ブティックなどが増え、次第に目黒通り沿いにも同様の光景が見受けられるようになった。その後、地価の急激な高騰と昨今の長期的不況により、店の入れ替わりがいっそう激しくなり、開店して1年も経たずに店が入れ替わるケースもある。
旧白金台町は空襲の被害を受けなかったことや、長らく住宅街としての位置づけにあったこともあり、目黒通り周辺には近年まで戦前から残る家屋も並んでいた。しかし、地価の高騰や地下鉄開業、目黒通りの拡幅工事によって、地権者や建造物の入れ替わりが進み、他の東京の地区と同様にマンションやオフィスなどのビルが多くを占めるようになっている。
作家今東光は会話の時うっかり「芝のしろがね町の……」と発言したために、谷崎潤一郎から「芝はしろかね。白金と書いてしろかねと言うんだ」「牛込のはしろがね。白銀と書いてしろがねと発音するんだ。明治になってから、田舎っぺが東京へ来るようになって、地名の発音が次第に滅茶苦茶になってきたな」と怒鳴りつけられたことを記している(『十二階崩壊』中央公論社、1978年。p.250)