陸軍野戦砲兵學校 是位於千葉県四街道市的大日本帝國陸軍的教育機関[1]。
學生的教育分為甲種、乙種兩類,開設観測、通信、馭法、情報等二十五種以上科目。
四街道市役所西側立有石碑紀念。
千葉県旭村鹿渡無番地(現在是四街道市中央・鹿渡無番地)。主要施設有:現在的四街道市役所、千葉県立四街道高等學校、四街道市立中央小學校、四街道市中央公園、伊藤洋華堂四街道店等。現在的四街道市公民館、愛國學園大學、千葉敬愛高等學校及周邊為幹部候補生隊。駐當地的野戦重砲兵第四連隊在1939年(昭和14年)移防中國大陸後、留下的空置設施也被炮校使用。
- 1873年(明治6年)聘請法國教官在舊佐倉藩的砲術練習所(下志津火業所)開始砲術伝習教育。
- 1886年(明治19年)4月2日 陸軍砲兵射的學校創立。
- 1896年(明治29年)改稱 陸軍野戦砲兵射撃學校。搬遷到四街道站北側。
- 1922年(大正11年)8月10日 改稱陸軍野戦砲兵學校。増設了包含野戦重砲兵的教導聯隊。新設高射砲練習隊。
- 1933年(昭和8年) 創設情報・観測隊及下士官候補生隊、幹部候補生隊。
- 1941年(昭和16年) 新設少年兵生徒隊、迫撃砲隊(含火箭)、自走砲隊。
- 1945年(昭和20年) 終戦,學校解隊。
- 江間孚通 砲兵中佐:1886年5月3日 - 1888年5月21日
- 黒瀬義門砲兵中佐:1888年5月30日 -
- 熊谷宣篤砲兵中佐:1893年4月21日 - 1894年6月14日
- 伊藤祐義砲兵中佐:1894年6月14日 -
- 出石猷彥砲兵中佐:1895年8月8日 - 1896年5月15日
- 伊藤祐義 砲兵大佐:不詳 - 1897年10月11日
- 野間駉砲兵大佐:1897年10月11日 - 1903年5月1日
- 松本鼎砲兵大佐:1903年5月1日 -
- 木下宇三郎砲兵大佐:1907年11月13日 - 1910年10月1日
- 河北栄太郎砲兵大佐:1910年10月1日 - 1913年8月22日
- 長尾駿郎砲兵大佐:1913年8月22日 - 1916年8月18日
- 渡辺満太郎少將:1916年8月18日 - 1917年8月6日
- 小野寺重太郎少將:1917年8月6日 -
- 磯村年少將:1919年4月15日 -
- {{tsl|ja|波多野義彥v少將:1921年3月28日 -
- 波多野義彥 少將:1922年9月6日 - 1923年8月6日[2]
- 金山久松少將:1923年8月6日[2] - 1926年3月2日[3]
- 原口初太郎中將:1926年3月2日 -
- 室兼次少將:1927年7月26日 -
- 西義一中將:1930年8月1日 -
- 入江仁六郎少將:1931年8月1日 -
- 伊東政喜少將:1933年8月1日 -
- 山室宗武少將:1934年8月1日 - 1936年3月23日[4]
- 井関隆昌少將:1936年3月23日 -
- 広野太吉少將:1937年8月14日 -
- 前田治少將:1938年7月15日 -
- 井関仭少將:1939年3月9日 -
- 佐野忠義 少將:1940年8月1日 -
- 重田徳松少將:1941年6月20日 -
- 池田浚吉少將:1942年3月2日 -
- 欠員:1944年3月4日 - 8月22日
- 橋本博光少將:1944年8月22日 - 閉校
味澤由妃(2014年8月20日). 「戦後70年を前に:1都3県・痕跡を訪ねて/3 四街道市・舊陸軍野戦砲兵學校 繰り上げ卒業、次々戦地へ」. 毎日新聞 (毎日新聞社)
- 秦郁彥編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大學出版會、2005年。
- 外山操・森松俊夫編著『帝國陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。