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赤穗浪士(日語:赤穂浪士/あこうろうし Akōrōshi),是元祿15年12月14日(1703年1月30日)深夜為報舊主淺野長矩之仇,攻入高家吉良義央的住宅,將吉良義央及其家人殺害的原赤穗藩(今 兵庫縣赤穗郡)藩士大石良雄以下47人之武士。此事件史稱「元祿赤穗事件」。在過去多被稱作赤穗之浪人(牢人),但是明治中期以後被稱作赤穗義士、四十七士、赤穗義士或赤穗四十七義士,在日本二戰投降前成為一般的名稱。
此條目翻譯品質不佳。 |
姓名 | 事蹟(役職、祿高、役割、享年、辭世等) |
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大石內藏助良雄 (大石良雄) |
國家老、1500石(譜代)。攻入報仇之指導者。享年45。辭世是「あら楽や思ひは晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし」。 |
大石主稅良金 (大石良金) |
部屋住。大石內藏助之長男。攻入報仇之時擔任裏門的大將。最年少之同志。享年16。辭世是「あふ時はかたりつくすとおもへども別れとなればのこる言の葉」。 |
原惣右衛門元辰 (原元辰) |
足輕頭、300石(新參)。江戶急進派的中心人物。享年56。辭世是「君がため思もつもる白雪を散らすは今朝の嶺の松風」。 |
片岡源五右衛門高房 (片岡高房) |
側用人・兒小姓頭、350石(譜代)。在忠臣藏中,淺野內匠頭切腹之際,和淺野見最後一面。強硬主張報仇而獨自行動。享年36。 |
堀部彌兵衛金丸 (堀部金丸) |
前江戶留守居、前300石、隱居料20石(譜代)。同志之中最年長者。享年77。辭世是「雪はれて思ひを遂るあしたかな」。 |
堀部安兵衛武庸 (堀部武庸) |
馬廻、200石。越後國新發田藩出身、舊姓中山。因高田馬場之決鬥的活躍,成為堀部彌兵衛的婿養子、赤穗淺野家之家臣。報仇急進派的中心人物。傳說攻入報仇時,持大太刀大奮戰。享年34。辭世是「梓弓ためしにも引け武士の道は迷はぬ跡と思はば」。 |
吉田忠左衛門兼亮 (吉田兼亮) |
足輕頭・郡奉行、200石役料50石(譜代)。浪士之中僅次於大石內藏助的人物,補佐大石。享年64。辭世是「かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山道」。 |
吉田澤右衛門兼貞 (吉田兼貞) |
部屋住。藏奉行吉田忠左衛門之長男。享年29。 |
近松勘六行重 (近松行重) |
馬廻、250石(譜代)。攻入報仇之際負傷。享年34。 |
間瀨久太夫正明 (間瀨正明) |
大目付、200石役料50石(二代)。享年63。 |
間瀨孫九郎正辰 (間瀨正辰) |
部屋住。間瀨久太夫之長男。享年23。 |
赤埴源藏重賢 (赤埴重賢) |
馬廻、200石(譜代)。在忠臣藏中以「德利之別」有名。享年35。 |
潮田又之丞高教 (潮田高教) |
郡奉行、繪圖奉行、200石(譜代)。享年35。辭世是「武士の道とばかりを一筋に思ひ立ぬる死出の旅路を」。 |
富森助右衛門正因 (富森正因) |
馬廻・使番、200石(二代)。享年34。辭世是「先立し人もありけりけふの日をつひの旅路の思ひ出にして」。 |
不破數右衛門正種 (不破正種) |
元馬廻・濱奉行、元100石(譜代)。成為浪人後加入義盟。傳說攻入報仇時最為賣力。享年34。 |
岡野金右衛門包秀 (岡野包秀) |
部屋住。美男子,在忠臣藏物語中,透過大工的女兒獲得吉良屋敷的圖面。享年24。辭世是「その匂ひ雪のあさぢの野梅かな」。 |
小野寺十內秀和 (小野寺秀和) |
京都留守居番、150石役料70石(譜代)。享年61。辭世是「今ははや言の葉草もなかりけり何のためとて露結ぶらむ」。 |
小野寺幸右衛門秀富 (小野寺秀富) |
部屋住。小野寺十內之養子。享年28。辭世是「今朝もはやいふ言の葉もなかりけりなにのためとて露むすぶらん」。 |
木村岡右衛門貞行 (木村貞行) |
馬廻・繪圖奉行、150石(譜代)。享年46。辭世是「おもひきや我が武士の道ならで御法のゑんにあふとは」。 |
奧田孫太夫重盛 (奧田重盛) |
武具奉行・江戶定府、150石(新參)。報仇急進派之中心人物。享年57。 |
奧田貞右衛門行高 (奧田行高) |
部屋住。奧田孫太夫之養子。近松勘六之異母弟。享年26。 |
早水藤左衛門滿堯 (早水滿堯) |
馬廻、150石(二代)。從江戶將刃傷事件之第一報傳到赤穗。享年42。辭世是「地水火風空のうちより出し身のたどりて帰るもとのすみかに」。 |
矢田五郎右衛門助武 (矢田助武) |
馬廻・江戶定府、150石(二代)。享年29。 |
大石瀨左衛門信清 (大石信清) |
馬廻、150石(譜代)。享年27。 |
礒貝十郎左衛門正久 (礒貝正久) |
物頭・側用人、150石(新參)。享年25。 |
間喜兵衛光延 (間光延) |
勝手方吟味役、100石(二代)。享年69。辭世是「草枕むすぶ假寐の夢さめて常世にかへる春の曙」。 |
間十次郎光興 (間光興) |
部屋住。間喜兵衛之長男。對吉良上野介刺第一槍,得其首級。享年26。辭世是「終にその待つにぞ露の玉の緒のけふ絶えて行く死出の山道」。 |
間新六郎光風 (間光風) |
間喜兵衛之次男。成為浪人後加入義盟。享年24。辭世是「思草茂れる野辺の旅枕假寢の夢は結ばざりしを」。 |
中村勘助正辰 (中村正辰) |
書物役、100石(譜代)。享年46。辭世是「梅が香や日足を傳ふ大書院」。 |
千馬三郎兵衛光忠 (千馬光忠) |
馬廻、100石(二代)。享年51。 |
菅谷半之丞政利 (菅谷政利) |
馬廻・郡代、100石(譜代)。享年44。 |
村松喜兵衛秀直 (村松秀直) |
扶持奉行・江戶定府、20石5人扶持(二代)。享年62。辭世是「命にもかえぬ一をうしなはば逃げかくれてもこゝを逃れん」。 |
村松三太夫高直 (村松高直) |
部屋住。村松喜兵衛之長男。享年27。辭世是「極楽を斷りなしに通らばや彌陀諸共に四十八人」。 |
倉橋傳助武幸 (倉橋武幸) |
扶持奉行・中小姓、20石5人扶持(二代)。享年34。 |
岡嶋八十右衛門常樹 (岡島常樹) |
札座勘定奉行、20石5人扶持(二代)。原惣右衛門之弟。享年38。 |
大高源五忠雄 (大高忠雄) |
金奉行・膳番元方・腰物方、20石5人扶持。小野寺幸右衛門之兄。接近出入吉良家之茶人,得知12月14日在吉良屋敷有茶會。長於俳諧,和俳人寶井其角交流,據此衍生出外傳「松浦之太鼓」。享年38。辭世是「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」。 |
矢頭右衛門七教兼 (矢頭教兼) |
部屋住(譜代)。和父長助共同加入義盟,攻入報仇決行前,父病死。享年17。 |
勝田新左衛門武堯 (勝田武堯) |
札座橫目、15石3人扶持(譜代)。享年24。 |
武林唯七隆重 (武林隆重) |
馬廻、15兩3人扶持(二代)。和吉良上野介之養子吉良左兵衛義周互砍,使其負傷,砍殺躲在炭小屋的吉良上野介。享年32。辭世是「三十年來一夢中 捨身取義夢尚同 雙親臥病故郷在 取義捨恩夢共空」祖父、杭州武林人孟二寛。 |
前原伊助宗房 (前原宗房) |
金奉行・中小姓、10石3人扶持(二代)。在江戶開吳服屋,調查吉良屋敷。享年40。辭世是「春來んとさしもしらじな年月のふりゆくものは人の白髪」。 |
貝賀彌左衛門友信 (貝賀友信) |
中小姓・藏奉行、10兩3人扶持(新參)。吉田忠左衛門之弟。享年54。 |
杉野十平次次房 (杉野次房) |
札座橫目、8兩3人扶持(二代)。享年28。 |
神崎與五郎則休 (神崎則休) |
徒目付、5兩3人扶持(新參)。享年38。辭世是「余の星はよそ目づかひや天の川」。 |
三村次郎左衛門包常 (三村包常) |
台所奉行・酒奉行、7石2人扶持(二代)。享年37。 |
橫川勘平宗利 (橫川宗利) |
徒目付、5兩3人扶持(新參)。調查12月14日吉良屋敷茶會之事。享年37。辭世是「まてしばし死出の遅速はあらんともまつさきかけて道しるべせむ」。 |
茅野和助常成 (茅野常成) |
橫目付、5兩3人扶持(新參)。享年37。辭世是「天地の外にあらじな千種だにもと咲く野辺に枯ると思へば」。 |
寺坂吉右衛門信行 (寺坂信行) |
吉田忠左衛門之足輕、3兩2分2人扶持。足輕中的唯一參加者。攻入報仇後從一行中退去。四十七士之中唯一未切腹之人。享年83。 |
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