岩田專太郎(片假名:いわた せんたろう,生卒:1901年6月8日—1974年2月19日),日本畫家、插畫家、美術考證家。插畫作品散見於連載小說、報章雜誌,或在書籍封面發表美人畫的繪製。以「昭和時代插畫界第一人」廣為人知[1],更有「日本的比亞茲萊」美譽[2]:79-80。妹妹則為演員湊明子[3]。
生平
明治34年(1901),岩田專太郎出生於東京市淺草區的黑船町(今東京都台東區壽)[1]。完成舊制小學校的課業後,舉家搬至京都,拜圖案設計師田村春曉為師[2]:79,同時也在菊池契月、伊東深水的門下學畫[4]。
大正八年(1919),以18歲之齡在博文館的《講談雜誌》首度發表插畫作品[1]。大正12年(1923)9月1日,受關東大地震波及,遷居大阪。受聘為中山太陽堂廣告出版公司的專屬畫家[4],接連替多本雜誌、連載小說上繪製插畫,如同年創刊的《女性》(編輯:小山內薰)、翌年創刊的《苦樂》(編輯:直木三十五與川口松太郎等)[5],以及永井荷風的連載小説[4]。
大正15年(1926),專太郎搬回東京,居住於瀧野川區田端476番地(今北區田端),那附近有所謂「田端文士村」的雅號,不久之後,川口松太郎也搬到附近。同年,《大阪每日新聞》開始連載吉川英治的小說《鳴門秘帖》,專太郎替其繪製插畫,因此聲名大噪,當時便有「摩登浮世繪」之名傳開[6]。
昭和12年(1937),電影導演山中貞雄的遺作〈人情紙氣球〉〈人情紙風船〉,P.C.L.電影作品)上映,由河原崎長十郎主演,岩田專太郎出任美術考證、昭和14年(1939),山中遺留的電影企劃案,原山中的助理導演萩原遼執導演筒拍攝〈前夜〉(日語:その前夜,東寶電影京都攝影所作品),由梶原金八書寫腳本、河原崎主演,專太郎同樣擔綱美術考證一職[7]。
逸聞
代表作品
- 〈小休止〉(1944年)(東京國立近代美術館)
- 〈特攻隊內地基地を進発す(二)〉(1945年)(東京國立近代美術館)
- 『三百年のおんな』 (毎日新聞社、1973年)
- 『女・おんな・女』 (講談社、1966年)
- 『わが半生記』 (家の光協會、1972年)
- 『私の履歴書 芸術家の獨創』、田河水泡・土門拳・橫尾忠則と共著、日本経済新聞出版社、日経ビジネス人文庫、2008年1月7日 ISBN 4532194342
- 『人情紙氣球』(山中貞雄監督、1937年、P.C.L.電影)- 美術考證
- 『その前夜』(萩原遼監督、1939年、東寶京都)- 美術考證
- 『歌女おぼえ書』(清水宏監督、1941年、松竹大船)- 考證
- 『すみだ川』(井上金太郎監督、川口松太郎原作、1942年、松竹大船)- 美術考證
- 『血槍富士』(內田吐夢監督、井上金太郎原作、1955年、東映京都)- 服裝考證
- 『赤穂浪士 天の巻地の巻』 (松田定次監督、大佛次郎原作、1956年)、東映京都)- 色彩設計
- 『日本橋』(市川崑監督、1956年、大映東京)- 色彩指導、時代考證
- 『流れる』(成瀬巳喜男監督、1956年、東寶)- 服裝考證
- 『いとはん物語』(伊藤大輔監督、1957年、大映東京)- 美術考證
相關條目
- 川口松太郎
- 木村光久(徒弟)
參考資料
外部連結
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